<月刊パセオフラメンコ名作アーカイブ/2000年11月号)

(5)ダン矢田時代の終幕

文/菊地裕子

時を経て、ダン矢田をリーダーに一丸となって店を守っていたメンバーたちが、一人、また一人とリタイアしていく。店は次々に新しいメンバーを迎えたが、ギターラの従来のやり方は次第に通じにくいものとなっていった。さらに、矢田自身の情熱も別のほうに向けられ、ギターラは新しい時代の波に置き去りにされようとしていた———

 初期のギターラは、店の雰囲気をメンバーたちの強い結束力で作り上げていたが、リーダーのダン矢田は、店の体制に加え、メンバーの生活にも気を配っていた。何人かのメンバーが「自分は矢田オヤジに拾われた」と言った。ギタリストのエスピノサ島倉によれば、矢田はギターラが新宿に移った時に株式会社を興し、メンバーのギャラを月給制にした。株の配当が出るからと、株を持たされ、実際に配当金を手にした覚えがあるという。メンバーの一部とスペインに行った際には、「留守番」のエスピノサにギターのお土産を渡すのを忘れなかった。エスピノサが病を得た時には、伊東のリゾートホテルで療養するよう手配した。ダン矢田は、ギターラを彼らの安住の地にしたかったのかもしれない。

 だが、時代は確実に移っていた。ミラノ座の地下に移転した1971年、そのエスピノサが健康上の理由で店を辞め、72年、ミゲル菅生が、40歳を目前に踊り手としての自分に見切りを付けて引退した。73年には、ファニート篠田と結婚 (66年)していたロリータ内海が妊娠して脱退。カルメン岩崎はステージに立つより厨房の仕事をすることが多くなり、マリア香取はたまにルンバなどを踊ったが、店のママ役がメインになった。初期からのメンバーで最後までステージを守り続けたのは、一枚看板となった踊り手のファニート篠田と、名司会で鳴らした歌い手のパコ山田のみ。

 ある人が言った。「ギターラのメンバーの中でも特にファニートとパコは、何とかフラメンコに近づこうと努力してた」。しかし皮肉なことに、ギターラの中心人物である二人が店を離れてスペインに行くことはできなかった。

 80年前後、ゲストやレギュラーとして何度かギターラに出演した碇山奈奈は、パコ山田が、後期の最も印象深いアーティストとして挙げる踊り手である。だが碇山にとっては、特にレギュラーでの仕事は「ちょっとつまらなかった」という。

 「当時の私には、芸人としての自覚なんて全然なかった。ファニートやエミリア(水野)の踊りにしても、自分の思っているフラメンコと全然違うということ以外、彼らの何も見ていなかった。自分のことでいっぱいで、今思えばもったいなかったと、とても感じる。今の私だったら、もっと面白くいられたと思う。ショービジネスのスターだった人もたくさんいたのに。でも、ギターラの人達はそんなこと一言も言わなかった。素朴というのか、人間らしい、気持ちのいい人達だった。大人だったし。いっぱい苦労してたんじゃないのかな」

 73年、ギターラにゲスト出演したベニータ・ケイは、ファニートのリサイタルにも2回ほど出ている。ベニータは、フラメンコを習っていた10代の頃に新宿東口時代のギターラを訪ね、「いつかギターラで踊るんだ」と 心に決めたという。

 「格好いい!と思いましたね。紫煙が漂う中で、カウンターの上で踊るでしょう。何か、 大人の世界というか、退廃的な感じで」

 だが、スペイン留学をし、国内のホテルや劇場でスペイン人とも共演した彼女の目には、ギターラのショーが違うものに見えた。

 「ファニートに言ったことがあるんです。 もっと来日アーティストの舞台を見たり、レッスンを受けたりした方がいいんじゃないのって。でもファニートは、いいんだ、自分には自分の世界があるからって」

 また、当時、ギタリストとして出演した植木勝は、ステージでアーティストとして踊っていた若い新メンバーが、トイレ掃除から皿洗いまでやらされ、泣いているのを見て、矢田に抗議し、方針を変えさせている。

 「周りにいた他のメンバーは何も言わず黙っていましたが、あんなことをさせてたら、舞 台でそれが出てしまうでしょう」

 ダン矢田のやり方が身に染み込んだメンバーと新しいメンバーでは、ステージの考え方に明かにズレがあった。たとえば矢田は、駆け出しのダンサーだった若い頃、1枚しかない背広をいつもパリッと新品のように見せるため、睡眠時間を削っても毎日自分でアイロンをかけ、さっそうと着こなしていたらしい。 エスピノサによれば、矢田はよくメンバーに、「みそ汁の中身を見せるな」と言っていたと いうが、つまりそれは、たとえトイレ掃除をしていても、ステージでは楽屋裏を見せるな、生活臭を漂わせるなということだ。それが彼の考える芸人の心意気、芸人魂だった。だが今や、若い世代にその精神は通じにくくなっていた。

 ベニータと植木は、74年から矢田の組織した外回り専門のグループ「ロス・アセス・フラメンコス」で、ギタリストの説田稔、踊り手のアンヘラ幸子(現・説田幸子)、SKD (松竹歌劇団)出身の歌い手リンダ富樫らと全国巡業をした後、ギターラを退いた。

 一方、矢田自身の関心も別の方向に向き始めていた。この頃、すっかり車椅子生活になっていた矢田は、障害者のための市民運動に精力を傾け始める。NHK厚生文化事業団に働きかけ、新宿の超高層ビル街で「身体障害者のためのフラメンコ・フェスティバル」を 開いて献金のためのオークションをしたり、あゆみの箱への募金をアピールするため、メンバーの有志を連れて有楽町をデモンストレーションしたり。 養老院や老人ホームへもメンバーを慰問に行かせた。

 また、15年には写真家の関口照生と風間耕司に16ミリのカメラを持たせ、妻のマリアとラテン歌手の宝とも子に車椅子を押させて、1カ月の南米視察旅行(ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルーなど)に行っている。道路の整備事情が遅れている南米を車椅子で旅し、その模様を録画することで、身障者の抱える実情に理解を求めようという意図だった。これは「ホイールチェアは世界を回る」というタイトルの作品になり、一部で公開されたという。

 けれども、ここが矢田らしいところだが、リオでは1週間ホテルに滞在してカーニバルを堪能している。一部の人々の口からは、矢田がフラメンコの次はサンバに目をつけたという話も聞こえた。真偽のほどは定かでないが、矢田のギターラへの情熱が、すでに一途なものでなくなってきたのは確かだろう。ギターラのショーの演出は続けたが、店に顔を出す回数がめっきり減っていった。そしてその演出にも、かつてのように時代を先取りする新しさや奇抜さが薄れてきたようだ。体が動かないため、実際の振付はファニートが代わって動き、店の切り盛りは、マリアと、事実上の金庫番だったトランペッターのマエストロ鈴木が行っていた。しかし、矢田のオーラに陰りが見え始め、ギターラのショーは次第に新しい客を呼べなくなっていく。この頃のショーを見た関口照生は、矢田が「老いたな」と感じたという。

 84年、ギターラは「もろもろの事情のため、 自然解散」(パコ山田)する。事実上の閉店だった。だが翌年、「ギターラの灯を消すな」 の声に新しいオーナーが出現する。再建され た店を任されたのは、植木勝とベニータ・ケ イだった。(文中敬称略)

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