<月刊パセオフラメンコ名作アーカイブ/2002年3月号)
序章
文/菊地裕子
年が明けてすぐ、山田正彦なる人物から一 通の手紙が届いた。開けてみると、薄い便せんに手書きの文字でこうあった。
「お待たせしました。私ことパコ山田がこのたびフラメンコの店を開くことになりました。場所はあなたも私も懐かしの新宿ゴールデン街!入って2本目の角店フラメンコ居酒屋(旧)ナナです―――」
「ああ、パコさんか」と思わずつぶやく。
パコ山田は、かつて新宿にあったタブラオ「ギターラ」を、 長年切り盛りしてきたカンタ オールである。彼が「ナナ」の経営を引き継ぐことになったのは、年末に人づてに聞いていた。しかし、どういうスタイルでやるかまでは知らされていない。手紙に「(旧) ナナ」 と書いてあるのを見て少々胸騒ぎがした私は、急いで新しい店の名前を確認した。するとそこには、特徴のある筆跡で、「フラメンコ居酒屋NANA」の文字。店主が変わるに当たり、パコは店名をカタカナから横文字に変えただけらしい。
お披露目の1月15日、開店直後の店を訪ねると、果たして『NANA』の店内は『ナナ』の当時のままだった。唯一違ったのは照明で、店内はずっと明るくなっていた。以前は闇に沈んでいた天井の曼陀羅や、窓に描かれたスペインの絵が鮮やかに見え、白壁を黒々と埋め尽くしたスペイン人アーティストの無数のサインもくっきりと読める。
やがて店には常連客が三々五々詰めかけてきた。ひとしきりお喋りでにぎわった後、誰かがギターを弾き、誰かがカンテを歌い始める............それはまるで、相も変わらぬ『ナナ』の風景のように私には感じられた。ただ、〝 ナナさん"の姿がそこにないことを除けば。
『ナナ』 は、新宿で約40年続いた、フラメンコの小さな居酒屋である。最後の数年は私も半ば常連として通わせてもらった。
L字型のカウンターの半分と、3つの小テーブル、両方合わせても椅子に座れるのは10人ほど。だが仮に椅子席が空いていても、常連は立ち飲みを好み、カセットテープのフラメンコを聞きながら、店主の〝ナナさん"と一緒に他愛ないお喋りをするのが常だった。
アフィシオナード(愛好家)はもちろん、日西のさまざまなアーティストがこの店に通い、興が乗ればギターを弾き、カンテを歌った。都内の公演やタブラオに出演中のスペイン人の多くが『ナナ』詣でをするので、別のグループのアーティスト同士がここでセッションすることも珍しくなかった。
店内で生のフラメンコが始まれば、〝ナナさん"はテープの音を止める。別々のおしゃべりに興じていた客たちも、ふっと口をつぐみ 耳をそばだてる。日本でフラメンコがブームと言われ、世間では踊り手にばかり注目がいっていたが、この店にくれば、どんな有名な踊り手でもカンテを敬愛していることが心から納得できた。
ペーニャ(愛好会)が開催されるとなれば、その狭い店内に30人もが満員電車よろしく押し合いへし合い、アーティストの息遣いを肌で感じる空間でギターやカンテに酔いしれた。ハレオが飛び交い、パルマが渦巻く。たくさんの濃密で贅沢な黄金の時間が、この店にはあった。
その『ナナ』の店主〝ナナさん”(本名・新 耀子)が亡くなったのは、昨年8月のことである。
店に通う誰にとっても、〝ナナさん"あっての『ナナ」だった。そして常連客にとって〝ナ ナさん"は「お母さん」あるいは「お姉さん」、「人生の師」、「フラメンコの師」だった。 通夜の席には『ナナ」の歴史の長さを物語る多くの人々が訪れた。フラメンコ関係者、愛好家の姿も多く、関西から駆けつけた踊り手のエル・ポカ岡崎、翌日にリサイタルの本番を控えた田中美穂の顔もあった。皆一様に喪失感に耐えているかのようだったが、いや結局のところ、私自身がそうだったのだろう、周囲と交わした会話など、ほとんど覚えていない。
だが、ただ一つ、離れた所から漏れ聞こえ てきたこの言葉だけが、なぜかはっきりと耳 に残った。
「一つの時代が終わったね」
ああ、ほんとだね・・・・・・と誰かが相槌を打つ。するとしばらくして、別の所で他の誰かがぼつりと同じ台詞を言う。そしてまた別のグループの誰かが同じことを......。まるで示し合わせたかのようにまったく同じ言葉が人の口をついて出てくるのを、私は頭がしびれるような感じで聞いていた。
一つの時代が終わったとは、裏を返せば、〝ナナさん"の『ナナ』が一つの時代を築いたということだ。それがどんな時代なのか、その時、正直言って私にははっきりとしたイメ ージがなかった。常連といっておかしくない ほど店に通い詰めた頃もあったのに、私には 彼らの言う「時代」がつかめない、思いを共 有できないやりきれない気持ちで葬祭場を後にした時、常連の一人が私に言った。

(作者不詳/松谷文子氏提供)
「『ナナ』のことを書きなよ」
・・・・・・まさか、と思った。 いくらなんでも荷が勝ちすぎだ、と。だが、日が経つにつれ、〝「ナナ」の時代”を知りたいと思う気持ちは膨らむ一方となった。
〝ナナさん"はもういない。今のうちに関係者に話を聞いておかなければ、人々の『ナナ』の記憶は風化していくかもしれない。書けるか書けないかは天に任せて、よし、ともかく取材しよう―――
閉店していた『ナナ」が再び店を開けたのは、ちょうど私が取材を始めた9月頃だ。『ナナ』の歴史は古く、来ていた客の数も膨大である。だが、飲み屋のこととて客の住所氏名がすべて分かるわけではない。連絡が行き届かず、〝ナナさん"の訃報を知らなかった客もたくさんいるだろう。その人たちが心行くまでお別れできるようにと、常連客の有志がカウンターに”ナナさん"の遺影を飾り、仮の営業を始めたのである。
カウンターに入ったのは、有志の一人〝ムライちゃん"の勤め先である劇団・ワハハ本 舗の若い役者たち。しかし、彼らには舞台の本番が迫っており、その間の店番をどうしようか、〝ムライちゃん"は頭を悩ませていた。 たまたま、幻のギタリストといわれるペペ島田がここで〝ナナさん"の追悼コンサートを開くと聞き、再び『ナナ』のドアを開けた私は、ひょんなことから、劇団の本番の期間だけ、他の女性客と交替でカウンターを務める ことになった。
それは得難い体験だった。ただの客として通っていた頃には分からなかったことが見えてきた。ショックだったのは、常連と呼ばれる人々に、フラメンコには特に興味をもたない人がたくさんいたことだ。私は『ナナ』が名実ともにフラメンコの店で、客もそれが目当てだと思い込んでいたが、事実は違った。そしてその常連の多くは、いわゆる全共闘世代の人々だった。

『ナナ』がフラメンコ居酒屋としてスタートしたのは1965年頃(店としては、それ以前から別の形で営業していたようだが、それについてはまた後述する)。『ナナ』のある新宿・花園神社脇のバラックの飲み屋街が〝ゴールデン街〟という名称になったのとほぼ同時期で、この頃のゴールデン街には、学生運動家をはじめ、役者・舞踏家・美術家・作家・写真家・漫画家・ミュージシャン・芸人、そして多くのその卵たちがたむろしていた。
あちこちの店で、イデオロギーや芸術に関する熱っぽい議論が繰り広げられた時代である。彼らが『ナナ』に流れ込んできていても、なんら不思議はなかったが、なぜ彼らがフラメンコ居酒屋の常連として通うことになったのか、私にはそこが分からなかった。
ある時、カウンターの中にいた私は、そういう常連の一人が宗教論を始めたのを聞くともなしに聞いていた。酒が進むほどに演説は声高になり、ほかの客もそろそろ参ってきた様子を見て、臨時ママである私はなんとか話題を変えてみようとしたが、うまくいかない。こういう時、〝ナナさん”だったらビシッと一言決めるに違いない、そう思った時、彼の隣 にいた昔からの常連が、〝ナナさん”の遺影をあごで指して笑いながら言った。
「ほら、〝ナナ"が怒ってるよ。政治と宗教の 話は駄目だって」
ああそうだ、〝ナナ"は政治と宗教の話が嫌いだった―――皆が笑顔になって話題は自然に他へと移り、私は〝ナナさん"の魔法を見たような気がした。常連の彼らが語る〝ナナさん”のエピソードは、どれも初めて聞くものばかりだったが、私の知っている”ナナさん"のイメージと寸分の違いもなく、私もたくさんのことを思い出した。
フラメンコの話に夢中になった私が隣り合った客を相手に興奮して議論していると、よく「うるさいっ!声が大きいっ」と怒られた。逆に、フラメンコのことで喧嘩になりそうなアーティスト同士に、つい私が「やるなら表でやりなさいよっ」と怒鳴ったら、「そうだそうだっ!その通りっ!」と〝ナナさん" は叫んだ。言うことを聞かない客や酒癖の悪い客はすぐに出入り禁止にし、店に3人しか客がいなくても「満員です。さようなら」ときっぱり断った。
こうした彼女のルールは、すべての客に適用されていたのだ。おそらく、議論好きの学生だった彼らにも。〝ナナさん”こそがこの店 のルールであり、空気のみなもとだった。そして店に来たきっかけが何であれ、常連とは、それを愛した人々なのだ。

私自身、客としての自分を振り返り、果たしてフラメンコ目当てに通っていたのかと自問してみた。確かにフラメンコがそこに在ったことは、店に通い始めた大きな理由である。けれども、常連にまでなるほど『ナナ』が私を引き付けた理由は、やっぱり〝ナナさん"の醸し出す『ナナ』の空気そのものだとしか言いようがない。 そして今思えば、おそらく私は、〝ナナさん"という人自体からフラメンコを感じていたのである。
パコ山田が店を引き継ぐことが決定するまで、『ナナ』をどうするかは二転三転した。有志による仮営業をいつまでも続けるのは無理があったが、後継者がなかなか決まらない。そもそも『ナナ』は、国内随一の盛り場であ新宿にあって、珍しくチャージもお通しもない格安の居酒屋だった。そうしたスタイルで、〝ナナさん”以外の誰が店をやっていけるのか。
やきもきしながらも私の取材は滑り出しから順調に進んだ。最初に話が聞けたのは〝ニーニョ"だった。〝ニーニョ"は"ナナさん" と共に『ナナ』をフラメンコ居酒屋としてスタートさせ、4年間ほど一緒に店を切り盛りしていた相棒である。『ナナ』の壁一面にある絵画は彼の手によるもので、月に向かってギターを弾く男、黒衣に身を包んだ女、牛の角に倒れた闘牛士など、まるで詩の一節一節を映したように、たくさんのドラマが描かれている。〝ニーニョ"はフラメンコが好きな画家の卵だった。壁画には、当時の彼のスペインへの憧れの強さが見て取れる。
当時、二人は恋人同士だった。彼のギターで〝ナナさん"はカンテを歌い、踊りを踊った。しかし〝ニーニョ"は、 ついに画家を目指して一人でスペインに渡り、そのまま帰ってこなかったと噂で聞いた。
今はスペイン北部で画家として一家を成している彼と日本で会えたのは、まったくの幸運だった。〝ナナさん"の訃報を知らなかった "ニーニョ"は、画家だった父親の遺作展と自分の個展を一緒に開くため、実に7年ぶりに故郷の兵庫県三田市に娘を連れて戻ってきていたのだ。
〝ナナさん"を裏切ったひどい男だよと、口さがない客の一人は彼のことを言ったものだが、今回、本人に話を聞いたところ、〝ナナさん"はそれから何年もたってから、若い恋人を連れてスペインを訪れ、すでにスペインの女性と結婚していた "ニーニョ"の家にも泊まって行ったという。
話を聞きながら、私はもう〝ナナさん"が彼をとっくに許しているに違いないと思った。 私が取材の真っ先に彼に会えたこと自体、天 にいる〝ナナさん"の意向ではないかと。『ナナ』の臨時ママとして初めてカウンター に入った時、そこがいやに落ち着くことにびっくりさせられたのだが、もっと驚いたのは、 "ニーニョ"の壁画が正面から目に飛び込んできたことだった。カウンターの中にいれば、口開けの客が入ってくるまでの一人の時間を、どうしてもこの絵と対峙することになる。スペインへの憧れが一杯に詰まったこの絵と。込められた思いに、フラメンコを愛する人間 は少なからず共感を覚えるだろう。それは、すでに『ナナ』の一部と化していた。しかし、この壁画を、一体〝ナナさん"はどんな思いで見つめていただろう。そして、ここに通っ た人々は、どう感じていたのだろう。スペインを、フラメンコを、『ナナ』を。

パコ山田が『NANA』をオープンさせたことは、原稿を書くのにまだ躊躇があった私の背中を、ぽんと押してくれた。お披露目の時、なぜ店を引き継いだのかと聞いた私に、彼は違うことを言ったのだ。
「終(つい)の住処にする覚悟で来ましたから」
62歳のパコが、自宅を出て、猫1匹と店の上階の住居に移り住んだという。『NANA』の開店は、常連には『ナナ』の再開と見えても、パコにとっては新しい出発、最後の冒険なのだった。
パコが新しい店の扉を開けたなら、私も思い切って古い『ナナ』の扉を開けようと思う。そこで遊んだたくさんの人々、輝いた時間、濃い空気を、出来る限り詳細に描き、〝ナナさん"とその時代へのオマージュにしたい。きっとそこには、日本におけるフラメンコへのアフィシオン―愛情の原点が見えてくると私は信じる。私たちの今の心に通じるアフィシオンが。

