文/菊地裕子

「ああやっぱり、「ギターラ」で踊っていた人たちは違う……」。 あるアーティストが感嘆したように言った。ギターラ。37年 前、東京に日本初のタブラオとしてオープンし、8年前に閉 店するまで、毎日、日本人によるフラメンコ・ショーをやった店。初期の頃にはスペイン帰りの長嶺ヤス子が、小松原庸子が、その舞台に立ち、後期には数々の実力派アーティストがそこから巣立っていった。いま伝説のように語られるタブラ オ、ギターラとはどんな店だったのか。約30年の歴史を追う。

「あの当時で舞台に歌とギターと踊りがあった。日本のフラメンコにとって大切な場所だった」(小松原庸子・舞踊家/64・65年に出演)
「フラメンコの観客の下地を作り、いい環境を作ってくれた。エル・フラの先輩の店として尊敬している」(加藤亨・東京エル・フラメンコ初代総支配人 [67年~79年])
「人前でやれる常設の唯一の場所。いつ野垂れ死ぬかという感じだった私たちアーティストにとって、魅力的な店だった」(本間三郎・舞踊家/69年に出演)
「僕にとっては、フラメンコの学校のようなもの。スペイン人アーティストがいて、踊り伴奏と歌伴奏の勉強ができた」(瀬田彰・ギタリスト/75年頃、出演)
「勉強中の身だったから、継続的にお客様の前で踊らせてもらって、ありがたかった」 (碇山奈奈・舞踊家/80年頃、出演)
「合宿みたいに密度の濃い環境で、クアドロ・フラメンコのやり方など、舞台での私のベースを作ってくれた」(大塚友美・舞踊家/89年~92年頃、出演)

「ギターラ」が東京に、日本で初めてフラメ ンコを専門に見せる店タブラオとして誕生したのは、国中が東京オリンピック開催に沸いていた1964年。まだ多くの日本人が、フラメンコがどんなものか知らない時代だ。にもかかわらず、オープンした店は1日5回のショーに連日立ち見が出るほどの盛況だったという。
 華やかな幕開けから、9年に閉店するまで約30年。その間、ギターラはほとんど毎日、 ショーを行った。現在も活躍中の多くの日本人アーティストが、その舞台を踏み、フラメンコにかかわる多くの人が、それを見ている。 彼らの言葉からは等しく、ギターラは自分にとって、あるいは日本のフラメンコにとって、 意義のある存在だったというニュアンスが感じられる。
 しかしギターラも、30年という歴史の中ではいくつかの変遷があった。吉祥寺でオープンした翌年には新宿に場所を移し、メインの新宿時代にも店を移転した。わずかの期間だが一時は営業を中断したこともある。時代とともに営業方針が変わり、出演者も変わった。初期の頃と後期の頃では、ショーの演出も営業スタイルも、かなり違ったものになっている。
 店内に、フラメンコとは雰囲気の違う、トランペットが響き渡る。明かりが点くと、何とカウンターの上に総勢100人以上の出演者が、男女の別なく赤いバラをくわえ、ポーズを取っている……。
 開店当初の何年か、ギターラのショーはたとえばそんなふうに始まった。もちろん本物 のフラメンコはバラをくわえては踊らないが、ショーの演出は、当時の日本に根強くあったフラメンコには赤いバラ"というイメージ を利用し、人々が夢想するフラメンコを演じてみせたのである。
 演出したのは、ギターラの創始者でもあるダン矢田(矢田茂)。 矢田は日劇出身の舞踊家・振付家で、戦後の日本のショービジネスの世界では洋舞のナンバーワンの実力者といわれ、自らの舞踊団「ダン・ヤダ・ダンサー ズ」を率い、日本はもとより世界各地で巡業した。 矢田の得意技は、ジャズダンス、タップダンス、バレエ、ラテン、さらには日本舞踊までもと幅広く、独自のアイデアに基づくアレンジでショーを構成・演出し、人気を博していた。
 当初のギターラのショーも、レギュラーを務めたのはダン・ヤダ・ダンサーズにいた、さまざまな踊りを踊れるダンサーたち。彼らのうち何人かがスペイン人アーティストから学んだフラメンコ舞踊を、矢田流のアレンジで踊っていたようだ。小松原庸子や本間三郎といったゲストは別にして、彼らは1日5回のショーをこなし、その合間には従業員として接客もし、閉店後には矢田のダメ出しに応える形で徹夜で稽古したりすることも少なくなかった。
 それが後期になると、オーディションで選ばれたフラメンコのフリーの踊り手たちが日替りで出演し、それぞれが自分の持っている振付のナンバーで舞台を務めるという、現在よくある普通のタブラオと同じスタイルになってくる。ギターラは出演者のほとんどがスペインで学んだ人々で、舞台でもスペインのタブラオと同じようなクアドロ・フラメンコ (メンバー全員が舞台に上がって順番に踊り、誰かが踊っている時にはほかの踊り手がパルマやハレオで盛り上げるというスタイル)を展開した。
 ショービジネスの第一人者がダンサーたちを演出していた時代から、スペイン帰りの若手が本場と同じように自主的に踊る時代へ。 時とともにショーの内容は変わったが、ギタ ーラが常に徹底したプロの現場であり続けたことに変わりはない。
 その現場をずっと見守り続けた人物がいる。 65年からギターラにカンタオールとしてレギ ュラー出演し、92年に閉店するまで司会も務めていた、パコ山田である。
 26歳から27年間をギターラとともに生きたパコにとって、ギターラは「青春そのもの」だ。「僕は本来シャイな人間で、一人でぼーっとしているのが好き。司会や歌で人前に立つ時は、別の人間を演じていた」という彼は、タブラオから離れた現在、舞台で歌う機会はそう多くはない。しかし今後の抱負を尋ねると、「またギターラみたいなフラメンコの店を作りたい。それが夢です」と躊躇ない答え。
 60歳を過ぎた彼に、まだ夢を抱かせるタブラオ、ギターラ。そのドラマに満ちた歴史を、 これからパコにも水先案内してもらいながらひもといていきたい。(2000年7月号)

「ギターラ」伝説” に対して2件のコメントがあります。

  1. 若林作絵 より:

    当時の様子がわかる記事の再掲、ありがとうございます。

  2. 加部洋 より:

    ありがとうございます。“「ギターラ」伝説”は全8回になります。週一回更新の予定です。お楽しみに。これからいろいろ発掘していきますが、再読したい記事があったらお知らせください。

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