<月刊パセオフラメンコ名作アーカイブ/2002年7月号)
【5】癒されたフラメンカたち
文/菊地裕子
さる夜更け、『NANA』に寄った。扉を開けると、すぐ目の前に何人も人が立っている。ギターが鳴り、誰かが歌っているところを見ると、どうもペーニャ状態になっているらしい。パコに言われてカウンター席に座った。両隣はエル・フラメンコに出演しているシモン(歌い手)とファン (踊り手)だ。しかし、いま歌っているのは日本人女性で、弾いているのは小森皓平。店を見渡すと、立って聞いているのはほとんど男性客だが、椅子席には女性が何人かいる。ゴールデン街のイメージには似つかわしくない、健康的な若い女性たちだ。
フラメンコ好きな女性たちは、最初はおおむね誰かに連れられてここへやってくる。おそらく、一人では入りづらいのだろう。だが、いったん店の空気になじんでしまうと、次からはなんの抵抗もなく、このゴールデン街に足を踏み入れるようになる。
『ナナ』の歴史に残る常連には、フラメンコ好きと特にそうでもない人がいるが、一人で店に通い続けた女性たちはほとんどがフラメンコ好きだった。だが、彼女たちが長く店に通い続けた理由はフラメンコだけではない。『ナナ』が閉店する間際まで常連だった、フラメンコ愛好家の"フミコさん”、踊り手の渡邊薫、関口京子、"Kさん"、歌い手の川島桂子など5人にそれぞれ、『ナナ』とのかかわりを聞いた。
"フミコさん" (本名:松谷文子)は、『ナナ』 の女性客の中でも最も古い、1960年代後半からの常連だ。クラシックのギタリストだった父親の影響か、戦後まもなくからフラメンコの主だった来日公演をすべて見たという。いまの日本でフラメンコの女性ファンといえば大半が踊りを習っている人だが、"フミコさん"は純粋に鑑賞派。新聞で「フラメンコ愛好会」の記事をみつけ、そこに出入りするようになり、会が解散する少し前に、ペペ島田の演奏を聞く。バレンシアという店に、故・池田五郎のギターを聞きに行ったこともある。その後、彼らが出入りしている『ナナ』というフラメンコ居酒屋の存在を知り、会で知り合った女性〝ツネコさん"と店を訪ねる。
「あの頃のゴールデン街は怖くてね。とても女の人が行けるような場所じゃなかった。だから〝ツネコさん"を誘ったんだけど、やっぱり怖くて入れないの」
店に電話をしたら、当時、店にいた〝ニーニョ〟 が迎えに来てくれた。
「〝ニーニョ〟は優しくて色が白くて背が高かった。〝ナナさん"はとてもきれいで、20代 の初めにしか見えなかった」と、夢見るように言う。"フミコさん"によれば、当時の『ナナ』 の客は、男性は〝ナナさん〟目当て、女性は〝ニーニョ〟目当てだったそうだ。真偽の程はわからないが、〝ナナさん”が見た目にとても若かったというのは本当らしい。 初期の常連だった”ヒガンテ"の話では、一緒に飲みに行った店に警察官が来て、〝ナナさん" に未成年だろうと詰め寄ったという。
最初のころの"フミコさん"は〝ツネコさん"といつも一緒だったため、〝ツネフミさん"と二人セットで呼ばれていたが、そのうち毎週金曜日に必ず店に現れるので〝金曜日の女"と呼ばれるようになった。ゴールデン街はもちろん、女性一人で飲みに行くのさえためらっていた"フミコさん"を引き付けたのは、フラメンコと店で出会った人達、ことに〝ナナさん"その人だ。
「豪放らいらくだけど、生真面目にルールは守る人。優しくて、大きな包容力があって、誰でも包み込む人でした。」
"ナナさん"は姉にも等しい存在だった。店で共に歌やギターを楽しみ、営業が終われば共に飲みに行き、旅行にも行った。
"ナナさん"との日々は、〝フミコさん"の生きてきた時間の大部分を占める。"ナナさん"が亡くなって、「生きている甲斐がない」が口癖になっていた。だが、"ナナさん"がそれを聞いたら、「馬鹿なこと言うんじゃない!」 と、きっと大声で叱り飛ばすに違いない。〝フミコさん〟自身の耳にも、その声は届いているのではないだろうか。

〝フミコさん"より少し遅れて常連になった渡邊薫は、数年間、"ナナさん〟を外国人との混血だと思い込んでいたという。
「自分ではスペイン語は喋らなかったけど、スペイン人の言うことや気持ちはちゃんと理解してたからね。あれはほんとに不思議だっ た・・・・・・ 」
6歳から踊りを習っていた渡邊は、師匠の公演にゲスト出演した踊り手エル・ポカ岡崎に誘われ、初めて『ナナ』へ行った。当時、まだ18歳。師匠には内緒だった。
「ゴールデン街みたいな所に自分が行くとは、夢にも思わなかった」という渡邊が、週1~ 2回は店に顔を出す常連になったのは、踊りをやって知っていた世界とは違うものがそこにあったからだ。
「その頃は私、ブレリアのリズムも叩けなかったの。ぺぺ島田に教えてもらって、ああ、そうなのかって(笑)」
今でこそ、フラメンコにはコンパスが必須と当然のように言われているが、当時はギタリストでさえ分かっている人は少数だった。まして踊りをやる人で本当にコンパスを認識している人は、プロでもごく一握りだったと思われる。しょっちゅうスペイン人が来て、ペペ島田やペペ飯野、ロス・パキートスらが 盛り上げていた『ナナ』では、それを体感することができた。エル・フラメンコのメンバーはもちろん、パコ・デ・ルシアのグループやアントニオ・ガデス舞踊団の人々が、来日すると必ず来た。
「刺激的」な時間が続き、渡邊は「フラメンコへの目が開かれた」という。数年後、日本のフラメンコの状況に満足できなくなった」渡邊は、初めて渡西。6年間、スペインでレッスンと仕事の日々を送り、帰国後も『ナナ』に通った。
「店は何にも変わってなかったのよね。あの変わらなさは何だろう。いつでも温かく私を包んでくれる空間だった」
川島桂子が『ナナ』を訪ねたのは90年頃だ。その2年前にフラメンコのカンテを初めて聞いてショックを受けた川島は、踊りを習ったりもしていたものの、主にカンテを知りたくて情報を求めていた。
「その時、話の合う人が、踊りをやってる人には一人もいなかった」という川島は、噂に聞いていた『ナナ』の場所をパセオで知り、一人で扉を開けた。
「本当は、それ以前にも3回、店の前まで行ってるんだけど、怖くてドアを開けられなくて、そのまま帰ってたんだよね(笑)」
『ナナ』でペペ島田と知り合った川島は、ペぺに誘われ、彼の「アイレ教室」に通い出す。以降しばらくは、レッスンの帰りに店に寄って、みんなでフラメンコを楽しむことが続いた。スペイン人がいる中で、川島も歌う場面が何度もあった。
「『ナナ』は〝駅前留学"みたいでしたね(笑)。その後、スペインに行ってそれほどカルチャーショックを受けなかったのは、『ナナ』で鍛えられたおかげだと思う」
川島が『ナナ』で学んだのは、何もカンテ だけではなく、「歌も含めたフラメンコ的なものごと」だという。それは、フラメンコに 対する〝ナナさん"の言動にも通じていた。ある時、〝ナナさん"の大好きな歌い手ボケロンが店に来て歌った。〝ナナさん"は「ボケちゃん、すてき!!」と大喜び。だが、同席していた別の歌い手が自分の歌を無視されたことを嘆き、「ナナ、コラソン、寂しい」と 言って、本当に泣いてしまったらしい。
「〝ナナさん"は審美眼のある人だったから」、 スペイン人でもつまらないと思ったら容赦がなかった。逆にいいものを聞かせてくれると、無邪気に喜んだ。 川島は「スペイン人同士の 勝負、駆け引きをしながらのフィエスタの感覚は、あそこで随分教わった」という。
「『ナナ』にあることだけがホントだと思ってた。そして、それだけで自分はいいと思ってた。その感覚は今でも変わってないですね」
店にはフラメンコ通もいれば、そうじゃない人もいた。アーティストが来てもスペイン人が来ても、〝ナナさん"は特別扱いはせず、マニアックな店にありがちな排他的な感じがない。知らない人とも普通にお喋りをして、たまたまフラメンコ好きが来れば、自然発生的にフラメンコが始まることもある。
だが、仮にフラメンコなことが起きなくても十分楽しかったという。最初の頃は「フラメンコ目的」で行っていた川島だが、「久しぶりに行くと、ああ、私はビタミンが足りなかったんだ、もっとここに来なきゃ!って思うのよね(笑)」
川島より1、2年後に『ナナ』に行き始めたのが関口京子だ。当時、新宿にあった『ギターラ』にレギュラー出演していた関口は、ペペ島田に連れられて店を訪ねた。
「『ギターラ』はスペインから帰って初めてのプロとしての仕事だったんです。その頃の『ギターラ』はフラメンコを見るための店というより〝夜の世界"という感じで、『ナナ』は対照的に〝フラメンコのコアな世界〟。それまで飲み屋といっても、チェーン店の居酒屋みたいなところしか行ったことがなかったので、カルチャーショックでしたよ」
ギターラの仕事が終わってから行くので、遅い時間になる。ある時、グラナダのギタリスト、ファン・マジャ・マローテが来ていた。終電がなくなりそうになって帰りかけた関口に、ペペが言った。
「今ここで帰ったら、一生、後悔するぞ」
ファンがギターを弾いた。
「それまで聞いたことがない、すごい音だった。私にとっては、ほんとに刺激的な世界で
したね」と、関口は言う。
だが、スペイン人の歌やギターに接する機会は、高円寺の『カサ・デ・エスペランサ』や大久保の『カサ・アルティスタ』でもないわけではない。関口が『ナナ』に通いだしたのは、それだけが理由ではなかった。
「生活の変化があまりにも大きかったから、ストレスが溜まってたんです。仕事の帰りには必ずどこかに寄って発散して帰ってた。『ナナ』は、話ができる店。フラメンコのことを、ああでもない、こうでもないと話せる人たちがいて、それが面白かった」
さらに関口は言った。
「『ナナ』に行く時は、〝ナナさん"に会いたいと思って行くんですよ。最大の理由はそれ です。居心地の良さには、〝ナナさん"の存在が大きかった」
関口と同じ頃から、『ナナ』の常連になった踊り手の"Kさん"もまた、その雰囲気に癒された一人だ。
「私の行く所はあそこしかなかった。最初は、何かフラメンコが始まってないかな、なんて 思って行っていたけど、そのうち、〝ナナさん" と喋りたくて行くようになったのね。段々、 知り合いもできて、常連のおじさんたちと話すのが楽しくなった」
"Kさん"によれば、〝ナナさん”は、伝統的フラメンコを信じて、尊敬しなくてはいけないという思いが常にあったという。「店で歌やパルマを聞いていて、ここは静かにしてるもんだとか、そんなにダラダラ踊らないんだとか、よく言ってました。そういう〝ナナさん"のフラメンコに対する姿勢がお手本になったと思う。講釈をせずに教えてれてた。〝ナナさん"にとっては感覚的なことだったんだろうけど、そこに神髄を感じましたね」
また〝Kさん"は、〝ナナさん"に仕事やプライベートなことで相談に乗ってもらったこともあった。
「私にとっては、完全にお母さんの感じだった。行ってほっとできる唯一の店。だから、〝ナナさん"が具合が悪くなって入院して店が休みになったりした時は、とても苦しかったです」
女性たちが皆、口をそろえて言ったことがあった。「〝ナナさん"は可愛い人だった」。お母さんを感じさせる包容力がありながら、一 方で、年下の男性に恋をして子供みたいになる。
「自分とは年が離れていても、同性として同じ目線で話ができた」(渡邊)
「いろんな女の魅力をふんだんに持っていた人」(川島)
彼女たちが常連として店に通ったのは、フラメンコがきっかけだったには違いない。だが長い間には、〝ナナさん"自身の魅力、醸し出す空気によって、癒され続けてきた、そのことが大きな要因になったのではないか。
関口が言った。
「私はきっと、まだ〝ナナさん"が亡くなっ たことを受け入れてないのかもしれない。思い出が上書きされるのがイヤで、新しい『N ANA』へは、まだ行けないでいるんです」
『NANA』はパコ山田の店だ。当然、パコの個性が反映される。そのことに異存はないという。ただ、思い出と折り合いがつかない だけ........。
「そのうち、『NANA』で飲みましょう」と努めて明るく言った。すぐに「そうですね」と返事が来た。私はちょっとほっとした。


