<月刊パセオフラメンコ名作アーカイブ/2002年5月号)
【3】スペインに一番近い店
文/菊地裕子
たしか8年ほど前のことだったと思う。
古くからのアフィシオナードに、新宿の小さな店に連れて行ってもらったことがあった。 フラメンコの店ではなかったが、店主が気を利かせてフラメンコのカセットテープをかけてくれた。 アフィシオナード氏はふだん、ちょっと古めのカンテやギターなら、ほとんどのアーティストを聞き分けられると豪語していた。この日も演奏者を当てようとしたが、しばらく聞いても見当がつかない様子。
「うーん......誰だ? 歌はカマロンのようでカマロンじゃない。ギターはパコ・デ・ルシアみたいだがパコじゃないようだな。日本にはこんな上手いのはいないはずだし、マスター、 これ、スペイン人?」
マスターは、フラメンコのことはよく分からないと言い、ジャケットをそのまま見せてくれた。タイトルに『情熱のフラメンコ』とあり、演奏者に日本人の名前が並んでいた。「唄:ペペ・エル・ビーノ、ギター:ペペ島田、唄:アルベルト・高野、ギターアンサンブル:小森皓平&ロス・パキートス」
これを見たとたん、アフィシオナード氏は、「あ、そうか!道理で上手いはずだ!(笑)」と叫び、一人悦に入ってしまった。ペペ島田の名前しか聞いたことがなかった私は、あわてて問いただした。
「あのう、ペペ・エル・ビーノって、スペイ ンの人ですか?」
「違う違う、日本人。ほらペペ飯野だよ!」「ええっ、ペペ飯野っ!」
ペペ飯野とは、現・フラメンコ研究家で拓殖大学教授の飯野昭夫である。『マイレーナ・ フラメンコ全歌詞集アンダルシア・ジプシーの歌』の翻訳などの労作がある彼は、以前から本誌にも執筆していた。その関係で私も、編集部主催の小さな集まりで、ギターを弾いたりセビジャーナスを踊ったりする姿を見たことがあった。しかしまさか彼が、プロの歌い手として録音しているとは思いもよらず、非常に驚いたのだった。するとアフィシオナード氏は、今度は小森皓平とロス・パキートスについて詳しい説明をしてくれた......。
いま、『ナナ』の〝熱い時代”を訪ねると、ペペ島田とまるでセットのように、ペペ飯野、 小森皓平、ロス・パキートスの名前が出てくる。くだんのアフィシオナード氏とは、現・作家の逢坂剛。作家になるずっと以前、大学生の時にフラメンコギターに取り憑かれ、フラメンコの店に出没していた。そして社会人になりたての頃から『ナナ』にも顔を出し、彼らのフラメンコ熱を浴びていたらしい。
逢坂に限らず、フラメンコ好きが続々と集まった頃の『ナナ』とは、どんな所だったのか。ペペ島田とともにフラメンコに興じていた中心人物の二人、ペペ飯野と小森皓平に、それぞれ話を聞いた。

ペペ飯野こと飯野昭夫が『ナナ』を初めて訪れたのは、大学生だった19歳の時。ペペ島田が出入りしはじめたのとほぼ同時期、『ナナ』がフラメンコ居酒屋として開店して間もない頃で、店には〝ナナさん”だけでなく〝ニーニョ"もいた。以来、飯野はほとんど毎日通うようになった。当時はワイン1杯が50円。学生にも安心して通える値段だった。
もともと歌が好きだった飯野は、群馬県の館林にいた中学生の頃、初めてフラメンコギターを聞き、とあるギタリストに「弟子にしてください」と手紙を書いて断られたという。それでもフラメンコへの思いが募り、高校時代にはスペイン語を独学で学びはじめ、やがてメキシコ人の尼僧について勉強し、東京外大のスペイン語科へ進学。
しかしその頃、東京外大にはフラメンコ愛好会らしきものはあっても踊りが中心で、飯野が求めているものとは違っていたらしい。
「フラメンコを知りたい!知ろうっ!という気込みが強かったね。当時は、濱田滋郎さん(音楽評論家)が書いていたレコードのライナーぐらいしか情報がなかった。それで、外国から本を取り寄せて勉強してました。フラメンコの本流から外れないように、と」
飯野が『ナナ』に日参するようになったのは、生の歌とギターがあって、同好の士が集ったからだ。とりわけぺぺ島田は、飯野にとって「一番刺激しあって切磋琢磨できる相手」だったという。
「彼は誰よりもフラメンコを真摯に求めていたからね。フラメンコに対する感受性、姿勢がいい。ツーと言えばカーな部分があった」
まだ邦訳が出ていなかったドン・ポーレンの『フラメンコの芸術』に二人が洗礼を受けたのもこの頃だ。この本はスペインの、主にモロン派のフラメンコに傾倒したアメリカ人ギタリストのポーレンが、ジプシーの暮らしに根付いた伝統的フラメンコという観点から、フィエスタやフエルガにおけるフラメンコや、その芸術性に重きを置いて解説した入門書である。飯野はこの本を、「サビーカスへのアンチテーゼとして読んだ」という。
当時の日本は、フラメンコギターがブームになっていたが、一般的に最も知られていたのは、レコードの数で他の追随を許さないサビーカスだった。 スペインからアメリカへ渡ったサビーカスは、踊りファンには舞姫カルメン・アマジャとのコンビで知られるが、ギターファンには高度なテクニックを駆使した華麗なギターソロで人気があった。
ポーレンの書にあるモロン派の巨匠、 ディエゴ・デル・ガストールのギターは、その対極にあると言っていいかもしれない。私も、数年前にCDでその伴奏を初めて耳にした時には、心底驚いた。骨太で土臭い奏法はそっけないぐらいだが、恐ろしいほど説得力のあるコンパスで感動させる。そこにフラメンコの魂があると言われれば、私自身、大きくうなずいてしまう。
前回、ペペ島田のエピソードとして紹介したモロン派のギタリスト、パコ・デル・ガストールとの出会いは、ペペ島田だけでなく、飯野にも大きな刺激となったのだった。
一方、小森皓平 (ギタリスト、『レジェン ダ・カンテ・アカデミー』主宰)が『ナナ』に顔を出しはじめたのは、両ペペより1年ほど後になる。
小森は京都の同志社大学在学中にフラメンコと出会い、当時、関西で一派をなしていた三好保彦のもとでギターを習う。その後、レコード会社に就職して上京し、フラメンコの店に出入りするようになった。
小森が最初に常連になったのは『ナナ』 ではなく、現・『NANA』店主のパコ山田がマスターをしていた喫茶店『スペイン』だ。コ ーヒー1杯で3時間も4時間もねばり、フラメンコに興じたという。
「バコは当時から歌ってましたからね。あの頃、僕ら、ギターには興味があったけど、歌には全然興味がない。そしたらパコに説教されましてね。〝フラメンコは歌だ!歌をやんなきゃ駄目だ!"って、カンテのいいレコードを貸してくれましたよ。〝それで勉強して俺の歌の伴奏をしろ”って」
しかし『スペイン』が閉店し、パコ山田は新宿に開店した『ギターラ』の歌い手になってしまった。『ギターラ』はショーが売り物の店で、フラメンコの歌やギターの勉強ができるような場所ではない。小森の足は自然に『ナナ』へと向いた。
その頃だ、スペイン人のショーを見せる『エル・フラメンコ』が新宿にオープンしたのは。出演していたスペイン人アーティストたちが『ナナ』にやっくるようになった。小森にとっても、飯野にとっても、彼らのもたらすものは大きかった。
期せずして二人とも同じエピソードを話してくれた。踊り手のマノレーテとともに来たアントニオ・ソレーラについてだ。ソレーラはギタリストだが、「ナナ」で彼らに新進気鋭のカマロンの歌を紹介してくれたという。カマロンは、今でこそフラメンコ界で誰知らぬ人のないカンテの天才だが、当時の日本ではほとんど知られていなかった。
当時スペインでは、カマロンはパコ・デ・ルシアの伴奏によるレコードでカンテの革命児としてセンセーションを巻き起こし、若い世代をフラメンコに引き入れており、来日したスペイン人アーティストたちにも強い影響を与えていたらしい。そして『ナナ』の常連たちも、その風をもろに受けた。
飯野は言う。
「昔のカンテはテンポが速かったのに、カマロンはゆっくりと歌うんだよ。その時、ソレーラがカマロンはこういうふうに歌うと言って、歌ったり、話してくれた。一気に憧れが高まっていったね」
小森は言う。
「僕が歌おうって思ったきっかけは「ナナ』ですよ。ソレーラが、ファンダンゴだったと思うけど、か細い声でカマロン節を歌った。ステージで聞かせようという歌じゃなくて、歌いたいと思って湧いて出る歌に感動した。ギタリストでも歌えるんだ、って。
僕ら、カマロンがいたから、スペイン人に遊んでもらえたんだと思う。カマロン節が独特だから、その雰囲気を少しでも真似しようとしてるところに共感を持ったんでしょう」
小森の言う「僕ら」とは、ロス・パキートスのことだ。当時開催されたアマチュアのフラメンコギター・コンクールで、審査員のひとりとなった小森は、その時に1位と3位に入賞した千葉範之、土田正男らと、後にロス・パキートスを結成する。3人ともサラリーマンだったが、小森が音楽関係の会社にいたこともあって、グループで演奏の仕事をいくつかこなしている。

その頃の「ナナ」を、飯野は「鎖国時代の 出島」に例えた。
「江戸時代の日本人が出島で異国の文化を吸収し、情報を集めたみたいに、『ナナ』は、スペインを覗く窓だった。〝俺たちはスペインに一番近いところにいるんだ"と思ってましたよ。『ナナ』という空間を使って、フラメンコで遊んでいましたから」
小森は「誰に遠慮することなくフラメンコ ができる店」と言った。
「僕らはプロ意識がないので、こわいものがなかった。スペイン人が来たら、僕らが火付け役になってギターを弾いたり歌ったりした。そうやってスペイン人をノセたんです」
『ナナ』の狭い空間で、スペインのフラメンコのエッセンスを膚で吸収した日々。彼らは、「ナナ」の営業時間が終わると、仕事を終えて駆けつけた若いペペ島田や池田五郎(故人・ギタリスト)らと、朝まで密かにやっていた近場のフラメンコの店―――踊り手のマルハ石川が経営していた『カサ・アルティスタ』や、本間三郎の『カルメン』などに繰り出し、それこそ何時間もフラメンコに興じた。
ある時、みんなで『カルメン』にいたら、カマロンを見出したことでも有名なヘレスのギタリスト、パコ・セペーロが来た。彼をノセようと小森とロス・パキートスの面々が弾いて歌ったら、なんとパコ・セペーロが、「俺が伴奏してやるから、歌え」と。
「ちょうどエル・フラの出演者たちがどーっと入って来たんだけど、彼らはパコ・セペーロに気後れして近寄ってこないんだ(笑)」
スペインから遠く離れた小さな島国、しかもフラメンコのことなど知っている人間は一握りという土地で、フラメンコのアルテ(芸) に対して尊敬を持つと同時に貪欲でもあった彼らの姿は、スペイン人から見れば驚きだっただろう。
「日本のフラメンコの発祥の地は新宿だ」と小森は言う。たしかに新宿は、『ナナ』を根城として、日本のフラメンコのアフィシオンが醸成された、発祥の地だと思われる。
二十歳前後の若い世代を中心に、いつでもフラメンコで盛り上がっていた『ナナ』だが、 年月とともに様子が変わっていった。
まず、ペペ島田が74年〜75年と、77年〜82年に渡西した。また、ペペ飯野も大学院に進んで25歳の頃に1年ちょっと渡西し、その後、大阪に就職が決まって『ナナ』へはほとんど来れなくなった。若かったほかのメンバーも、それぞれ就職などで忙しくなった。
「一時期は、フラメンコとは関係のない客が多かったこともありましたよ。芝居系の人達がメインだったり」(小森)
大阪に住んだ飯野は、就職先の仕事とは別に、神戸の『エル・ビノ』や、北新地の『サンブラ』で歌をうたった。『サンブラ』では、オーナーの要望で『ナナ』のようなフラメンコの拠点にしようとしたが、なかなかフラメンコ好きが集まらず、挫折したという。
3年後、脱サラをして再び上京した飯野は、しばらくガイドなどをした後、フラメンコ研究が認められて大学に就職する。以来、プロとして歌うことは辞めたという飯野だが、『ナナ』へは通った。しかし、住まいが新宿から遠く離れ、なかなか頻繁には行けない。たまに行っても、かつてのようなフラメンコの仲間と遭遇しない。
「ふらっと行って仲間と会えないのはイヤだから、ペーニャを作ろうってことになったん ですよ」(飯野)
おそらく1980年頃、月に1回、『ナナ』でフラメンコ好きが集まる会として始まり、 参加者が増えた84年、小森皓平を初代会長として『La Peña Flamenca de Tokio』の名称 ペーニャが発足。年会費6000円でミ二 コンサートなどの活動を行った。大物で は、55年にマヌエル・アグヘータ、88年にラファエル・ロメーロを招いてフエルガを行っ ている。
その後、98年から、正式名称を『東京フラメンコ倶楽部』に変更、新会長に飯野昭夫が就任し、年会費1万円で、年6回はスタジオ・コンサート、あとの6回は『ナナ』で集まるという方針が決まったが、最近は高円寺『カサ・デ・エスペランサ』に場所を移した。小森の方も別の場所でペーニャを開いている。それぞれのアフィシオンがペーニャという形で結実したような印象だ。『ナナ』への店通いはもう終わったのだろうか。
「僕は、飲む店っていうのを持たないんですよ。自分から行く店は『ナナ (NANA)』 だけです」と、飯野は言う。
小森は、パコ山田がやっていると聞いて、現『NANA』へ、しょっちゅう通っているという。
「カンタオール(パコ山田のこと)がやってますからね。フラメンコ色が強いですよ。僕にとって『NANA』 は 『ナナ』の時と変わらない。あそこに向かってるとうれしい。いつも、胸をときめかせて行くんです」
この言葉を聞いて、私は彼らが郷愁の中に『ナナ』を埋もれさせようとしていないと知った。ふと、山の中にいるペペ島田が、自分のことを語った言葉がよみがえった。
「僕はね、いつだって燃えてますよ。ずーっと燃えてるんです」


