<月刊パセオフラメンコ名作アーカイブ/2002年4月号)
【2】”奇跡"のギタリスト
文/菊地裕子
2月15日午前9時。私はJR新宿駅の新南口にいた。ここからJR高速バスに乗り、長野県の山中にある「南アルプス村」まで行かねばならない。そこに一人の男が待っているはずだった。「ナナ」がフラメンコ居酒屋として開店した当初から、「NANA」と名前を変えた現在まで、ずっとかかわり続けた人物が。
ぺぺ島田。日本のフラメンコ界にあって、おそらく唯一「天才」と呼ばれたギタリスト。スペインの舞台やフエルガで、スペイン人のギタリストを差し置いて、フラメンコで最も尊敬されるカンテの名匠たちの伴奏をいくつもこなしてきた日本人。『ナナ』のフラメンコの歴史を問えば、ほとんど誰の口からも、ペペの名前が真っ先に挙がった。「ナナ」で 彼のギターと共に過ごした日のことを、人々はある時は親愛の情をこめ、またある時は憧憬に満ちた声音で実に饒舌に語った。古くからのフラメンコファンなら、彼の名前はよく知っているはずだ。 しかし、ぺぺがめったに 表舞台に出なくなってからは、思い出として 語られることの方がずっと多くなっていた。
そのペペ島田の演奏を、最近になって私は 2度も耳にする機会があった。長野まで取材 に行こうと決めたのは、そのせいだ。南アルプス村まで3時間半、高速バスのゆったりしたシートに身を預けながら、私はここに至るまでの経緯を思い出していた。
久しぶりにペペ島田の演奏を聞いたのは、昨年暮れ、有志により仮営業中の『ナナ』で行われたペペの”ナナさん" 追悼ライブだった。宣伝もせず、ほとんど口コミの集客だったが、2日間とも満員で、文字通り立錐の余地もない状態。開始予定時刻より大幅に遅れて店に入ったペペは、持参したウィスキーを何度かあおり、〝ナナさん"の遺影に向かってグラスを掲げ、「ナナー!!」と吠えた。声が胸にこたえた。彼にとって〝ナナさん"は母親にも等しい存在だった。ペペは長野の〝ナナさん"ゆかりの寺で塔婆供養をしていたが、お焼香の時に彼女の若い頃から今までの笑顔が全部脳裏に浮かんだという。
親しい人々に囲まれた「ナナ』での彼のギターは、何とも優しく、暖かな音色で胸を揺さぶった。すすり泣きが聞こえた。ソロが終わると、ペペは店にいた誰彼の歌の伴奏を喜んでやり、店内は一気にフィエスタのように 盛り上がっていった。
この時、歌った人の中に、一際背が高く、がっしりした男がいた。初期の常連で〝ヒガンテ" (巨人)と呼ばれたカンタオールだ。 現在は大分県の中津で実家の仕事を継いでいる彼は、ペペのギターを聞くため上京してい た。翌日、話を聞くために会った時、〝ヒガンテ〟は昔を振り返ってしみじみと言った。

「あの頃の『ナナ』は、毎晩がフィエスタでしたよ。そう、ちょうど昨日みたいにね」
“事件"はそれからしばらくして起きた。仮営業中の「ナナ』で臨時ママをしていた私の耳に、「ペペ島田が『ナナ』を引き継ぐと申し出た」との話が飛び込んできたのだ。私も驚いたが、ぺぺを古くから知るファンたちはもっと驚いていた。いや、あわてていた。「彼はアーティストよ?店の営業なんかやらせたら、神経が参っちゃうじゃない」
都会が合わずに山にこもった人が、新宿の店で務まるのか・・・・・・という心配もあった。
しかし数日後、“事件”はあっさり解決した。ペペ本人から「家族会議の結果、取り下げることにしました」と連絡があったという。みんなはほっと胸をなでおろしたが、当人はその後のことが頭から離れなかったのだろう。パコ山田に店を引き継ぐよう話を持ちかけたのは、実はペペだった。一連の出来事は、「ナナ」 と〝ナナさん"へのペペの深い愛着を正直に物語っていると思えた。
再びペペの演奏に接したのは、この長野行きの5日前、高円寺のタブラオ『カサ・デ・エスペランサ』で開かれたライブだった。私は、ペペのギターの懐の深さ、振幅の幅の広さに瞠目した。
歌い手の川島桂子のカンテ、山本将光のパルマと共にブレリアで幕を開けたステージは、歌伴奏から、ソロ、舞踊伴奏、さらにインドの打楽器タブラとのコラボレーションときて、ペペの並々ならぬ引き出しの多さを見せつけた。演奏のどれもが一級品であることはもちろん、実に繊細で、あふれんばかりの情感をたたえていた。キレもあれば深みもある、そして人の心を引き付ける絶妙の間。汗だくになってペペは弾いた。感性のきらめきにとらえられた満員の客は、幾度となく息を飲み、魅了され、1曲終わるごとに嵐のような拍手と歓声でペペとメンバーを称えた。私自身、何か胸がいっぱいになり、何度も涙が、それこそふわっと湧いてきた。フィン・デ・フィエスタもアンコールも終わり、まだ興奮が続いているさなか、隣席にいた『NANA』の現店主・パコ山田が感に堪えたように言った。
「至福だね。今夜ここに来た客は、みんなと っても幸せだよ」
まったくだと私は、自分の感動を口に出した。今日初めて、私はペペ島田の本領を目の当たりにした気がする、と。すると、栃木県の足利市から駆けつけた、ぺぺとは旧知の元ギタリスト神林照夫が真顔で言った。「もちろん、良かったけどね。今夜の演奏だって、ぺぺの持っている引き出しの中の百分の一、いや、ひょっとすると千分の一だよ」目眩がしそうだった。私はまだ、彼のギターのすばらしさを知らないも同然なのだ。それにしても、なぜそれほどのギタリストが、長野の山中に引きこもっているのか―――。
ペペに『ナナ』の話を聞きたいということ は、すでに伝えてあった。どこで聞けるか相 談しようとそばに行くと、私の顔を見るなりさらりと彼は言った。
「いつうちに来るの?いつでもいいよ」
その自然な物言いに、山に行けば彼の本音が聞けるような気がした。
古くからのフラメンコファンが、ふとつぶやいた言葉がある。
「ペペ島田は、〝奇跡〟だよ」
その奇跡のギタリストは、長野の山中で畑を耕し、魚を釣って暮らしていた。午後1時、雪の残る南アルプス村の停留所に現れたペペは、ワーキングシャツにスウェット、長靴履きといういでたちだった。
挨拶もそこそこに「温泉行こうよ」と言い乗って来たバンに向かって歩きだす。彼岸桜で有名な高遠の温泉が近い。いざ露天風呂へ。平日の午後とて、いるのは近隣の高齢者ばかりで、まったく浮世離れした気分になった。帰路、バンのエンジントラブルに1時間ほどを費やしたあと、ペペが言った。
「タクシーで行こう。暗くなる前に見せたい ものがあるんだ」
車はどんどん山中に分け入っていく。キツネやタヌキはもちろん、鹿も熊も出るという。いよいよ人家もなくなってきたころ、谷川に沿った細い脇道に入る。入り口に立つ2本の門柱は、ペペ曰く「天界の門」だ。
ペペ島田が妻と犬と猫と暮らしている家は、山に囲まれた谷川沿いの、ちょっとした平地 にぽつんと建っていた。14畳一間の室内は三 方に窓があり、開ければせせらぎの音が流れ 込んでくる。そして、どこからも山が、緑が見える。その一つの窓に向かって、ペペは座椅子を置いた。
「ここがうちの特等席。さあ、座って」
いい眺めだった。まだ明るい青空に山の稜線がくっきりと映え、雪の残る山肌は、冬枯れの木々の微妙な色合いを見せていた。「色がどんどん変わるんだよね。それが見せ たくて急いだんだ」
私はため息が出た。なんと贅沢な時間だ。なんという邪気の無さだ。自給自足のための畑が雪に埋もれ、釣りをする熱も少し下火に なっているといういま、ペペには自然の中でのゆったりした癒しの時間だけがある。
しかし、牧歌的な暮らしの場所で私がペペから聞いたのは、密度の濃さに皮膚がピリピリするような話ばかりだった。

ペペ島田が『ナナ』に初めて足を踏み入れたのは、フラメンコ居酒屋として開店して約1ヵ月後。ペペ13歳の時というから驚きだ。その頃のゴールデン街は、昔の売笑地区、いわゆる青線地帯が売春禁止法の施行で衣替えをして、まだ日が浅い。ポン中(ヒロポン中毒)や売春婦、ポン引きがうろうろしている。大人はもちろん、とても子供が近寄れるような場所ではない。いや、そもそも"ナナさん" 自身が、たとえ親が同伴していようと、店に子供が来るのを嫌っていた。
しかしぺぺ島田はある意味、オトナだった。11歳からプロのバンドマンとしてクラブやレストランで活動し、フラメンコギターで独立しようとしていた彼は、年齢を7歳もサバ読んでいた。経営者の"ナナさん"も"ニーニヨ〟(画家・橘与四郎)も、きっと騙されていたに違いない。それより何より、ギターを弾く〝ニーニョ〟は、ペペの才能に舌を巻いた ようだ。4年後、一人でスペインに発つ際には"ナナさん"に「ペペは本物だ。よろしく面倒をみてやってくれ」と頼んでいったと、これは〝ニーニョ〟本人から聞いた。
だがぺぺの話では、最初の頃は「ナナ」 もまだ客が少なく、子供ながらに稼ぎの良かったペペは、二人を連れて近所の定食屋でご飯を振る舞ったりもしたらしい。そのうち、珍しいフラメンコの店として週刊誌に取り上げられ、チャージもお通しもなしの明朗会計で飲めるからと、口コミの客もつき始めた。翌年頃から店の常連となる"ヒガンテ"によれば、この頃はルンバやファンダンゴ・デ・ウエルバ、ペテネーラなどをみんなで覚えて歌ったという。当時は法規制で夜の11時で営業を終えなければならず、フラメンコの仲間は"ナナさん"や"ニーニョ〟と共に、焼き肉屋や居酒屋に繰り出した。
「どこへ行ってもフラメンコやるんですよ。ギター弾いて歌って。朝までそんなふうでした。ほかの客からの文句?言われた覚えがないなあ」
楽しかった、熱い時代だったと、当時二十歳前後だった"ヒガンテ"は言う。
ペペにも、聞いてみた。
「熱かったね、ほんっとに。でも、"ヒガンテ〟の言う熱さとは、僕の場合はちょっと違ったと思う」
それは"ヒガンテ"も言っていた。ペペにギターを教えてもらった時のこと。ブレリアをなかなか覚えられず、練習もしないでいたら、こっぴどく怒られた、と。
実年齢はペペの方が5歳ばかりも下だが、ことフラメンコに関しては関係なくなるのがぺぺだった。それは若くしてプロになった人の気概だろうか?それとも本物のフラメンコへの探求心だろうか?いや、その両方かもしれない。
この頃、”熱い”ギタリストの多くがそうだったように、ペペ島田もまた、来日したスペイン人アーティストがいればその舞台や楽屋におもむき、本物のフラメンコを会得しようとした。幼少から兄の手ほどきを受け、見様見真似でギターを弾いていた彼は、非常に耳が良いと、周囲の人が証言する。
面白いエピソードがある。『ナナ』より後、 新宿に開店した『エル・フラメンコ』に、ペ ぺがどうしても聞いてみたかったモロン派のギタリスト、パコ・デル・ガストールが来た。当時17歳だったペペは楽屋を訪ね、パコの前でギターを弾いてみせた。ペペのギターに驚いたパコは、20回ばかりも繰り返し曲を弾かせた。ペペは、彼が自分のファルセータを盗んでいるのだろうと思ったという。しかしパコは「もっとゆっくり弾け」と言った。 ゆっくり弾いてみた。「もっとだ、もっとゆっくり」。言われるままに弾いた。するとファルセータがペペ自身も驚くほどすばらしいものに変わり、感動したペペはパコの顔を見た。パコは「そうだろう?」という顔でうなずいた。本物のフラメンコを追求する喜びを、パコは知っていたのだ。
またパコは、「今度はお前のを弾け」と言った。オリジナルを弾けという意味だ。「おいでなすったな」と、ペペがソレアを弾いた時だった。パコが演奏中のペペの左手の指を1本持ち、フレットの上で移動させた。「ここはこうだ」と。わずかだが、和音の色合いが独特の哀調を帯びる。ペペはその時、初めてジプシー音階に開眼したという。
開眼するには、前提として、「 なぜ、ああ いう音色が自分には出せないんだ」という疑問がある。 ああでもないこうでもないと試行 錯誤がある。しつこいまでの探求、それがペ ぺの"熱さ"ではなかったか。
その探求心は、『ナナ』においても十分に発揮されたはずである。なぜなら『ナナ』では、最後の一時期は別にして、開店当初から何十年もの間、一貫してスペイン人アーティストから料金を取らない方針でやっていた。座席数も少なく、もともとの客単価が低い店でこうしたサービスを続けるのは、商売として決して楽ではなかったと思われるが、噂を聞いて来日アーティストがこぞって『ナナ』 に来るようになった。白壁に無数にあるサインがその証拠だ。『ナナ』は生きたフラメンコの実践場、小さなスペインだった。
ペペは言う。
「僕たちは『ナナ』を、スペインにあるフラメンコ・バルみたいにしたかったんです」
「僕たち」とは、“ニーニョ〟が渡西してからは、ペペと〝ナナさん〟だ。ペペには一緒に店を支えてきたという思いがあるのだろう。ス ペイン語を聞きわけることはできても、話すのは堂々と日本語で通していた”ナナさん" が、ある時、ペペの仕事先にSOSの電話を かけてきた。

「ぺぺ、どうしよう!パコが来てるの!」
初来日したパコ・デ・ルシアがメンバーと共に店に入ってきたのだった。ペペはとりあえず旧知のレストラン『バレンシア』にパコを連れて行くよう指示し、仕事を終えてその場に駆けつけたという。
またある時は、酔った勢いでスペイン人の男が『ナナ』 のギターをわざと壊した。〝ナナさん"はかんかんに怒り、男は出入り禁止。 弱った彼にとりなしてくれるよう頼まれたペペは、自分のギターを店に差し出した。〝ナナさん"は大いに喜んだが、当のスペイン人には「私は一生あなたを許さない」と言ったという。そして――これがいかにも〝ナナさん" らしい気がするのだが、ぺぺからもらったギターは店の2階に大事にしまい込み、一度も人に弾かせることがなかったそうだ。『ナナ』のルールや空気を作ったのが〝ナナ さん"だとしたら、ペペはそれを支える大きな柱だったと言えるだろう。二人が守った小さなスペインからは、それから長い時間をかけ、実にたくさんのフラメンコ仲間が集まり巣立っていったのだった。

