<月刊パセオフラメンコ名作アーカイブ/2001年1月号)
(7)旧世代と新世代
文/菊地裕子
ギターラに再びフラメンコの灯がともった。そのステージはそれまでと違い、契約による若い女性舞踊手たちによるものだった。一人一人が自分の持つナンバーをクアドロで踊る、今ではおなじみのスタイル。そこへ、ダン矢田時代のショーマンシップを彷彿させるファニート篠田が戻ってきて―――
第3期のギターラは、以前とまったく違う形でスタートした。88年9月頃、まずパコ山田が第1期後半に専属だったギタリスト益子善行にメンバー選定の手助けを頼む。当時、30歳になるかならないかだった益子は、キャリアのある何人かの踊り手に出演を依頼し、さらに新人をオーディションで集めた。
専属の踊り手は男性のアントニオ(中川竹明)のみ。女性舞踊手は3ヵ月ごとの契約で、出演するのは多い人でも週3日。月曜から土曜まで、顔触れの異なる3人の女性舞踊手がアントニオとステージに立つことになった。 当然、ダン矢田のような作り込んだショーはできない。個々の踊り手が、自分の持っている振付のナンバーをソロで踊るか、決まったパレハの振付を交替で踊るか。これは、今の時代の多くのタブラオとほとんど同じだ。
そこへ、再開から約半年後、パコはファニート篠田とマエストロ鈴木を呼び戻した。 オーナーからの指示で、目的は経営のテコ入れ。ファニートには多くのファンがいた。マエストロは総支配人に、ファニートはメインダンサーになり、1日3回のショーの2回目はフアニート・オン・ザ・ステージになった。
ファニートのショー。それは旧ギターラを 知らない新人たちには奇異に映ったらしい。「ソロを踊ったあとで、マイクを持って歌をうたわれるんです。『昴』 とか『ろくでなし』とか。お上手でしたけど、何か自分とは〝世 界〟が違うなと思ってました」
20代半ばだったという踊り手の鬼本由美は、〝世界〟を世代ともフラメンコ観とも言い換 えた。まさにこの時期、ギターラでは旧世代と新世代が同居していた。では、ファニートの〝世界〟はどう形作られたのだろうか。
1938年、ファニートは山口県宇部市に生まれた。姉の篠田レイ子によれば、幼少時から芸事好きの父親に日舞を習わされ、日舞に限らず踊りが好きで、中学1年の時には創作舞踊で賞をもらったりもした。その才を買われ、12歳で地元の現代舞踊家・河野昇の研究所に特待生として招かれる。 親の反対を押し切り、姉の援助を得ての修行時代、彼の目標は当時のショービジネスの大家、ダン矢田だった。炭鉱で働いて旅費を作り、ようやくダン・ヤダ・ダンサーズの研究所に入ったのは21歳の時。矢田の文章によれば、ファニー トは「山だしの真っ黒い青年」で、当時のダ ンサーズには「親がないとか、身寄りがないとか、家出娘だとかばかりいた」。 舞踊が趣 味の対象になる今とは時代が違う。ファニー トはここで日本の民謡、日舞、バレエ、モダ ンダンス、絶対音感などの教育を受け、日劇出身のタレント市村俊幸に歌唱指導を受けた。そして1960年、パリのムーランルージュでの1年間の公演に参加し、フラメンコに出会う。矢田に従ってギターラの創設メンバーとなったのは、26歳の踊り盛りだった。
数ある踊りの中からフラメンコを選んだ理由を、ファニートは姉のレイ子にこう言った。 「フラメンコはすべての舞踊を集結したもので、人間そのものを表現できる」
その踊りについて、周囲はこう評している。「存在感がある」「集中力がすごい」「サパテ アードが誰よりも強い」。しかし、フラメンコ固有のリズムであるコンパスについては、 評判がよくない。ファニートはスペインに行ったことがなかった。行く気もなかったと思われる。日本でスペイン人アーティストに教えを受けたこともあるが、振付は自分流にアレンジした。形の違いを指摘されても、「自分には自分の世界がある」と受け付けなかった。宇部後援会会長・上原武は、「飛び散る汗———この汗こそ『マグマ』以外の何物でもない。(中略) 燃えに燃え、たとえ燃え尽きようとも私は彼の全身から飛び散る『マグマ』 が好きだ」と書く。いまビデオでファニートの踊りを見ると、ファンの言う「情熱」「根性」といった言葉がうなずける。泥臭い。人間臭い。形は違っても、これこそフラメンコと思わせる力がある。
「自分の世界」を証明するかのようにファニートは、ギターラに出演しながら、東京の大きな劇場で積極的にリサイタルを開いた。1977年の第1回に始まり、82年まで毎年、「オセロ」や「山椒太夫」など計6本の創作を発表。その間、故郷の宇部でも公演を2回行い、また82年の「シェークスピア物語」は文化庁芸術祭参加作品にもなった。ダンサーとしての活路は創作フラメンコで開かれるかに見えた。しかし翌年、次の作品を準備中に病に倒れる。肺水腫だった。さらにその翌年の84年、第1期のギターラが閉店する。
それから5年、紆余曲折を経て、ファニートは再び古巣ギターラのステージに立った。 「一生現役、一生芸人」。共演した踊り手の阿部悠美子によれば、どんなに酔っていても得意のファルーカだけは完璧に踊れたという。81年リサイタルのパンフレットに、ダン矢田が寄せた言葉が載っていた。「そこにはショービジネスのすべて、ジャズもあれば日舞も。ショーマンシップそのものが彼の経験の中に彼のフラメンコを支えているわけである」
一方、契約の女性舞踊手たちにとってギタ ーラは、仕事の場であると同時に、貴重なクアドロ・フラメンコの実践の場だった。クアドロは出演者全員がステージにいて順番に踊るスタイルで、 バックにいる踊り手がパルマ (手拍子)やハレオ(掛け声)でショーを盛 り上げる。その一体感はフラメンコのベーシックな醍醐味だが、「当時は常時歌い手のいるタブラオもほとんどなければ、出演者をこれだけ揃えている場も珍しくて、ギターラで充実したクアドロができたのはありがたかっ た」と、ルンベーラのチャチャ手塚は言う。 益子によると、キャリア組のチャチャとチャ ソート剣持、阿部悠美子が芯になって、 新人たちを引っ張った。当時新人だった小島慶子 は言う。「私のベースを作ってくれました。 ギターラで仕事をしなかったら、今の私はなかった」。ほかに3期のギターラでレギュラーだった踊り手は、大塚友美、岡野裕子、川 崎さとみ、杉本明美など。いずれもクアドロ で鍛え上げられた実力を感じさせる踊り手ばかり。週3日出演していた鬼本由美が言った。「若輩でも未熟者でも、一人一人がプロとして集まってクアドロをする場所だった。当時はそこにエネルギーを注ぎ込むのに無我夢中だったけど、若い踊り初めの時期にひたすら仕事で踊れたのは、なんてラッキーだったんだろうと思います。今の若い子たちにはそん なに踊れる場所がなくて、かわいそうです」
ギターラは照明にお金がかかっていた。楽屋は2つ、衣装部屋も別にあった。設備が整い、ショーも充実していた・・・・・・と彼女たちは言う。だが客足は、またも遠のき始めた。バブルがはじけたのである。 (文中敬称略)
