<月刊パセオフラメンコ名作アーカイブ/2000年12月号)

(6)アートとそろばん

文/菊地裕子

新生ギターラの前途は、スタートから波乱含みだった。かつてのメンバーとの決裂。そしてオーナーから課せられた高いハー ドル。店を任された植木勝とベニータ・ケイは、ショーのクオリ ティーを上げ、売上を増やすことを求められたが、両者は必ずしも両立しなかった———

 再建されたギターラの第2期は、まさに迷走の時代だった。このころの話になると、パコ山田を始め第1期の黄金時代を知る人々の口は自然と重くなる。ダン矢田の後継者が育たなかったから、と嘆く人もいる。

 後継者として期待される人物といえば、ダン矢田の片腕として踊りを振り付け、看板スターとして踊っていたファニート篠田である。第1期の終焉に際して起きた「ギターラの灯を消すな」の声。ファニートはマエストロ鈴木らと、その中心にいた。しかし、新装オープンした「新宿ギターラ」から彼の姿は消えてしまった。

 その辺りの事情をベニータに聞いた。「ファニートは知らなかったと思うけど」と前置きして彼女が語ったところによると、仕事に関してファニートの漏らした一言が、新オーナーの逆鱗に触れ、鶴の一声で馘首が決まったのだという。その後、マエストロも店を去り、ファニートは東京の三ノ輪に自分の店を構えた。その名も「ギターラ」。多くの人の目にこれは決裂と映った。

 いずれにしても店を任された植木勝とベニータにとって、ギターラの雰囲気や体質を一新することは至上命題だった。ファニートの後援会長を務め、ずっと常連客だった皿谷正嗣氏に聞いたところ、第1期の終幕頃のギターラは「まるでクラブのよう」だったという。ショーの集客力が衰え、接客に頼るようになっていたらしい。

 オーナーに「金はどんなにかかっても〝いいもの"をやれ」と言われたベニータは、オーディションをやって若い踊り手たちを集めた。そして、スペインに飛んでスペイン舞踊を1ヵ月で4曲習得し、店に戻って彼女たちに振り付けた。3ヵ月に1度はショーの中身も変えた。また、接客には舞台衣装ではなく、揃いの制服に着替えさせることで、舞台とのけじめをつけようとした。

 しかし、「店の雰囲気を変えることはなかなか難しかった」と植木は言う。オーナーの要求する売上を達成するのも厳しかった。客を動員するため、たとえば植木は、はとバスのコースをギターラに入れた。ベニータは踊り手総動員で客に電話をかけさせた。客の入りは悪くはなかったが、要求される売上額には及ばなかったという。

 彼らの奮闘は、同業者にはどう映ったのか。 東京でギターラより少し遅れてオープンし、 今も営業を続ける老舗タブラオの関係者二人に聞いてみた。日本人アーティストのショーが専門の高円寺「カサ・デ・エスペランサ」の田代淳オーナーはこう言う。

 「フラメンコの目で見るとショーが平板になった気がした。でもタブラオには、フラメン コとしていいものをやってもお客さんがこないというジレンマが常にある。ベニータはショーマンとしてよく頑張ってたと思いますよ。ただ、女性を求める客とフラメンコを求める客はまったく違う。うちの店も昔、フラメンコをやらない日に接客の女性を置いていたことがあるけど、お客さんの雰囲気が違うんで 対応に困ることが多かった」

 スペイン人のフラメンコショーが売り物の新宿「エル・フラメンコ」でかつて支配人を務め、現在、東京と大阪、両方のエルフラを統括する木越正敏常務は言う。

 「タブラオ経営はアートとそろばん、両方が必要。この二つで押したり、引いたり。どっちかだけでは客はこないですよ。次は誰を呼ぶか、どんなことをやるか、うちもしょっちゅう考えてます。 ギターラの経営が斜めにな ったのは、やっぱりダン矢田さんがいなくなって求心力がなくなり、ショーでお客さんを呼べなくなったのが大きいんじゃないですか」

 87年1月、そのダン矢田が心筋梗塞で亡くなった。昭和のショービジネスの鬼才と言われた男は、本当に昭和と共に逝ってしまった。 享年69歳。やりたいことをやり尽くした華やかな人生に似合わず、最期は身内だけの密葬だったという。

 同じ年の8月、新宿ギターラは草月ホールで2日間にわたり、2周年記念公演を打った。パンフレットには、出演者として植木とベニータ、パコ山田のほか、店のメンバーだったアンヘリータ(滝沢恵)、 レイーナ(水村繁子)、ルナ(田中郁代)、メメ(工藤美智子)、アントニオ中川、ダヴィ・ラインフィエスタといった、今も劇場、タブラオで活動するアーティストたちの名前が載っている。そして巻頭に、オーナー会社を代表する人物の「ごあいさつ」があった。

 「『とにかく、自分達のできる最高のものを提供し続けること』これがギターラの方針であり 私の結論でもありました。(中略)彼らの情熱、フラメンコに対する考え方が、私に今回のショーの開催をふみきらせました」 

 ところが公演から間もなく、植木とベニータはオーナーから信じられない言葉を聞く。「これからは、フィリピンのヌードダンサーを使ってショーをやる」

 二人は支配人、ママとして残り、ベニータは時々フラメンコを踊ればいいと言われた。ベニータには苦い経験がある。以前、ダン矢田のもとで外回りの仕事をしていた時、手違いからヌードショーの店に出るはめになった。客は誰一人、彼女の踊りなど見なかった。ヌードを見に来た客にフラメンコがお呼びじゃないことは、身にしみて知っている。悩んだあげく、二人は店を辞める。取材の最後に、植木がもらした言葉が印象的だった。「ダンさんがいなきゃ、ダンさんみたいなショーはできないです」

 88年、新宿ギターラはヌードショーを見せる「キャバクラみたいになった」(パコ)という。名司会で鳴らしたパコだけが残っていたが、彼にとっても苦渋の時期だったらしく、あまり多くを語りたがらない。幸いにもというべきか、客の入りはよくならず、 パコはオーナーにフラメンコの店に戻すよう進言し、約半年後、新宿ギターラはタブラオとして再開することになる。

 折しもあのファニートが三ノ輪のギターラを閉じ、山口に帰省していた。彼を店に迎え、 さらに旧ギターラの金庫番だったマエストロ鈴木を店に呼び寄せた。新宿ギターラに久しぶりに懐かしい顔が揃った。パコはギタリストの益子善行を専属に頼み、彼に実力のある若い踊り手を集めさせることにした。

 89年頃から、新宿ギターラは再び、スペインで修行した踊り手たちの実践の場となる。チャリート剣持、チャチャ手塚、鬼本由美、大塚友美、小島慶子など、現在、中堅以上で活躍する踊り手たちが、毎日その舞台に立ち始めたのだった。 (文中敬称略)

コメントを残す