<月刊パセオフラメンコ名作アーカイブ/2000年8月号)
(2)ショービジネスの鬼才
文/菊地裕子
日本でまだフラメンコがほとんど知られていない時代に、「ギ ターラ」をオープンしたダン矢田。 レビューの斬新な演出で知られ、舞踊団を率いて世界中で公演し、戦後のショービジネス をリードして「昭和の鬼才」と呼ばれた人物が、なぜ日本初の タブラオを開くことになったのか。意外にもそのきっかけは、1960年のパリにあった・・・・
1964年、東京・吉祥寺に開店し、翌年、新宿に移転したギターラには、連日、多くの客が詰めかけた。当時の出演者によれば、日5回のショーはもちろん、本番前のリハーサルまで見にくる客が少なくなかったという。
しかしこの頃は、今と違って、フラメンコをやっている人間などほんの一握りの時代である。「フラメンコ」という言葉さえ、一般には馴染みがなかった。タブラオを開店するには、よほどの思い切りが要ったはずだが、創始者の故ダン矢田(矢田茂)とは、一体どんな人物だったのだろう。
手元に、ギターラのメンバーが中心になった劇場公演のパンフレットがあり、印象的な矢田の写真が載っている。甘さを感じさせないニヒルな二枚目。その眼には、何かに飢えたような暗い光がある。
生前の矢田を知る人々の多くが、「すごいアイデアマン」「時代の先を行ってた人」「カリスマがあった」と彼のショーマンとしての才能を褒める一方で、「きつい性格」「いつ怒鳴られるかと怖かった」「人の都合を考えない絶対君主」と、程度の差こそあれ、クギを刺すことを忘れない。
「男っぽくて、女を愛し、踊りに情熱をかけ、人に見せることを喜びとしてやってきた不世 出の演出家。ギターラの人達は彼を支えたけれど、あまりにもワンマンだったから、外には恨んだ人もたくさんいると思う」
初期のギターラに20代後半から5年間ほど通い詰めたという写真家の関口照生は、矢田に頼まれ、ギターラ関係のパンフレットや、ステージの背景のための写真を無償で提供していた。後年、車椅子生活になって身障者のための運動にのめり込んだ矢田に声をかけられ、1ヵ月に及ぶ南米の視察旅行を16ミリで撮影もした。
「自分のやることはできる!と確信する人です。本当に夢中になる。僕らのようにものを作る人間は、自分にないもの、すごい情熱とか狂気に魅かれる。僕はそういうものを矢田茂に見たから、長い付き合いをさせてもらった。恨む前に、何か自分にないものにほだされてしまう。ある意味での教祖です」
ダン矢田は大正6年(1917年)、山梨県に生まれた。上京後、日劇ダンシングチー ムに所属。その後は自分の舞踊団「ダン・ヤダ・ダンサーズ」を率い、日本全国の劇場やクラブ、キャバレーなどで公演。さらに、そのつど30名から70名前後のチームを組織し、東南アジアやヨーロッパなど世界各地で、日本人では初めて半年から1年の長期公演を実現させている。フロアショーを得意とし、斬新な振付・演出のレビューで人気を博した彼は「昭和の鬼才」と呼ばれた。
「カミソリの刃のような頭脳をお持ちでした」 矢田を「大、大尊敬」していたという宝とも子(日本ラテン音楽協会会長)は、ラテン歌手の草分けとして活躍を始めた60年代前半頃、矢田の演出するショーに出演。矢田はグランドキャバレーのフロアに満々と水を張り、そこに浮かべたゴンドラの上で宝に歌わせた。「耳が鋭く、リズム感はもちろん、音楽の感性も素晴らしい方でした」
宝によれば、矢田はカンテも歌った。フラメンコ特有の「こぶし(メリスマ)」が上手だったという。
1960年、矢田は総勢14名のメンバーを率い、パリの有名なレビュー劇場、ムーラ ン・ルージュに向かった。ここで2年という長期にわたり、「ラ・レビュー・ジャポネ」と題する公演を行う予定だった。観光客が多いことを見越した矢田は、日本舞踊を独自にアレンジしてショーのメインにし、踊り手のほかに、ヌード専門のマヌカン、ジャグラー、裃を着けての水芸、足芸などの芸人も揃えた。日本を発つ前の記念公演では、ややキワモノ的な演出の海外輸出に、一部週刊誌などで反発もあったが、パリの評判は上々だった。ギターラのオープンにかかわる三つの〝出来事”があったのは、このパリでの滞在期間中だった。
一つは、当時、世界中でスペイン舞踊の代名詞となっていたグラン・アントニオの舞踊団の公演をメンバーたちが揃って見たことだ。グラン・アントニオはバイラリンだが、フラメンコもよく踊る。感激した何人かがグラン・アントニオのレッスンを受け、初めて本物のフラメンコの洗礼を受けた。
二つ目は、フラメンコのショーをやっていた「ギターラ」というキャバレーを矢田が訪れたことである。それを見た矢田が「これからはフラメンコだ!と思った」と言うのを、のちにパコ山田が本人から聞いている。世界中で公演し、あらゆるショーを見てきた「カミソリの刃のような頭脳」が、フラメンコにとらえられた瞬間だった。
三つ目は、思わぬことだった。評判の良かった公演だったのに、矢田と雇い主との間でトラブルが起き、1年で打ち切りにされてしまう。メンバーは最後のギャラがもらえず、やっとの思いで船便の三等に乗り帰国することになる。矢田がやりたいことをやろうと思えば、どうしても雇い主との摩擦が避けられない。一国一城の主になる――― 自分の店を持つ、と彼が決めたことには、この一件が少なからず関係していると思われる。
帰国した矢田は、再びダン・ヤダ・ダンサーズのヨーロッパ公演やインドネシア公演を経て、ついにパリから3年後、ギターラ(当初はカフェ・カンタンテ・ギターラと言っていた)を開店する。
初期の頃のショーチャージは、安い席でワンドリンク付き550円。大卒の初任給が2万円代だった当時としては決して安くない値段だが、目の玉が飛び出るほどでもない。客の中にはギター好きの学生も多かった。矢田はショーだけでなく、店の雰囲気作りにもプロデューサーとしての手腕を発揮した。客に店オリジナルのコインを買ってもらい、それとドリンクやおつまみを交換するスタイルを取ったのだ。これが受け、コインを記念に持ち帰る客が後を絶たなかった。
さらに、普通の席とは別にボックス席(ス ペシャルシート)を設けて特別料金を課し、店に来た有名人や文化人をそこに案内した。 当時の矢田には出版関係に強力なブレーンが いて、作家の松本清張、瀬戸内晴美 (寂聴)、 芸術家の岡本太郎 (来店するなり、ステージ でひと踊りするのが常だったという)、落語家の林家三平、タレントの牧伸二、そして、ギターラ開店の2年後(66年)に「星のフラ メンコ」のヒットでレコード大賞作曲賞を受賞した浜口庫之助や歌手の西郷輝彦など、当 時の人気者が嬉々として通ってきたという。しかし、華やかな表舞台の裏側で、レギュ ラー出演者たちには、鬼才・矢田の苛烈な要求が待っていた......。 (文中敬称略)
※上記写真内の「おわびと訂正」箇所は、本アクースティカ倶楽部掲載の原稿では、著者の菊地氏にご修正頂いております
パリ公演 「ラ・レビュー・ジャポネ」 でのダン・ヤダ ・ ダンサーズ。