月日は矢のごとく早く、西脇美絵子の死去から5カ月が経ちました。
西脇の遺志を継ぎ、多くの業務は継続しておりますが、
かねてから決めていた西脇美絵子の追悼を、弊社のサイトで行いたいと思います。
生前親しくお付き合いして頂いた人たちに、追悼のお言葉を頂きました。

西脇美絵子に初めて会ったのは、30年以上も前、旧タブラオ、カサ・デ・エスペランサ
だったように思います。決して人をないがしろにしない、いつもリスペクトしている、よく笑う人でした。
結婚を決めたのは、それから15年以上も後のことでした。(アクースティカ代表・加部 洋)

西脇 美絵子/プロフィール

本名・加部美恵子 1960年東京生まれ、埼玉県熊谷市育ち。法政大学社会学部卒業。
フラメンコ専門誌パセオ・フラメンコの編集長を経て、フリーランスの編集ライター、プロデューサーとして活動。取材執筆、公演・ライブ等の企画制作・プロモーション、映像ソフトの企画・制作などフラメンコの現場を主なフィールドに仕事を重ねる。スタッフとして参加した主な公演に「フラメンコ曽根崎心中」、「第1回日本フラメンコ・フェスティバル」など。単行本では「逢坂剛対談集/フラメンコやりたいほうだい」、「フラメンコ上達ポイント50」等。また数多くの映像ソフトも手掛けた。ウェブマガジン「フラメンコシティオ」、続いてシティオ塾を設立、新コミュニティ「アクースティカ倶楽部」プロデューサー。自称日本のフラメンコの応援団長。自身病気と向き合いながらも、フラメンコが発する生命力を多くの人々に届けた。

 

セビジャーナスつなぎ

「魂は滅びない」 

佐藤 浩希(バイラオール/フラメンコ舞踊家、演出家、振付家)

私が西脇美絵子さん(以後、キリコさんと書かせていただく)に初めてお会いしたのはフラメンコをはじめて半年くらいだったろうか。                    日本フラメンコ協会のフェスティバルに師匠の鍵田真由美に連れられて出演した時、ロビーで突然声を掛けられた。
「君若いね(当時20歳)!いいね!男性少ないから頑張ってよ!」。そして写真を撮ってくれた。当時キリコさんは月刊パセオ編集長だったので、注目の若手コーナーに載せてくれたのだ。それが東京の片田舎から出て来て趣味で踊っていただけの青年にとって、どれほど嬉しいことだったことか。
それからどこかで会うと必ず声を掛けられ、顔に唾が飛んでくるほど熱く話しをしてくれて、私を大いに焚き付けてくれた。

数年後新人公演で「特別奨励賞」をいただいた時に電話をくれた。
「ひろくん!最高だったよ!今まで見たこともないような踊り!日本の祭りを感じた!」と。私は「ありがとうございます」を繰り返すだけだった。
この時いただいた言葉「日本の祭り」。正直、当時フラメンコ一辺倒だった私にはピンと来なかった。日本人のアイデンティティなんてものにも目覚めていなかった。だけどこの言葉がいずれ私の舞台作品に求める最も大切な要素になるとは。改めてキリコさんの隻眼に唸らされる。
何故この時の会話をよく覚えているのか。それは10年以上、この時の踊りを超えてない、と言われ続けたからだ。キリコさんはいつも熱い愛と厳しい鞭で私に接してくれた。
こうしてキリコさんとは太く長い時や、細く短い時を繰り返しながらずっとお付き合いが続いた。どれだけ泣いて笑って、喧嘩して、そして飲んだことだろう。  

パセオ編集長を辞めフリーのフラメンコ・プロデューサーになられたので、至極自然な流れでお仕事を依頼するようになった。
公演の企画の相談や、長年の編集を活かして公演プログラム編集、スタジオの広告パンフレットなどなど、今のアルテイソレラの礎を築いてくれた大事な人となった。
私が文章を書いてパセオに長く連載を書かせていただくようになったのもキリコさんのお陰だ。
学生時代の私の文章は悪い例として印刷して配られ(思えば酷いことされた)、それを修正して他の生徒が勉強するような代物だった。当然文章を書こうなんて気が起きるはずもない。だがメールで忌憚のないフラメンコ談義をやり取りする中で突然「ひろくん!文才あるよ!なんでもいいからフラメンコについて書いてみな!」と言われ、豚もおだてりゃ木に登るが如く今に至る。踊る以外にやれることを見つけてくれて本当に感謝している。

「曽根崎心中」の初演を終えて、キリコさんと一緒にスペイン旅行をした。ひとつの山を登り終え、また次のもっと高い山を探す旅だった。
ヘレスに着いた。そこでキリコさんが突然「ねえ、フェスティバル・デ・ヘレスに売り込みに行こうよ!」と言い出した。「無理無理無理、絶対無理!相手にされるわけがない!」と返した。ところが全く怯まず「何で!?せっかくヘレスに来たんだし、いいじゃない!当たって砕けろだよ!」
キリコさんに背中を押され、事務局の門を叩き、短い挨拶と15分の編集VHSを渡しそそくさと帰って来た。
数ヶ月後、そんなことも忘れていた頃、ヘレスから連絡があり、2003年、外国人として初めてフェスティバル・デ・ヘレスへの出演が決まった。

このフラメンコの歴史に残る偉業(このプロジェクトは私と鍵田だけではなく阿木燿子さん、宇崎竜童さんはじめ多くの人たちの力で成り立っているものだから胸を張ってそう言わせていただく)を達成できたのもキリコさんのあの一言がなければ成し得なかった。まさにフラメンコ・プロデューサー、西脇美絵子さんの偉業だ。
これだけではない。日本フラメンコ界にキリコさんに焚き付けられ活躍している人は大勢いる。業界にも色んな種を蒔き、花を咲かせた。これから芽を出す種もまだ眠っているはずだ。

「魂は滅びない」。こう題して大恩ある舞台監督でありプロデューサーの赤木知雅さんが亡くなる前に手紙をお送りしたことがある。赤木さんから教えていただいたことはずっと私の踊り、作品の中にしっかりと存在し、今もそれに導かれていることへの感謝を伝えたかった。そして赤木さんの魂は私たちが後世へ伝えていくとの決意を書いた。そうすることで魂は決して滅びず生き続けるからだ。

いま空の上にいるキリコさんに伝えたい。あなたの魂は生きてますよ。

『夢見る頃は終わらない』

川島 桂子(カンタオーラ/フラメンコ歌手)

「キリコです」
そう始まる留守番電話を、何回聞いたことだろう。

私たちが知り合った当時は、お互い活きのいい“アラサー”で、日本唯一のフラメンコ雑誌『PASEO』の編集長とレイアウターだった。なんだかよく分からないフラメンコというものに夢中になり、自分達にも何かができるんじゃないかと闇雲に突き進み、ああでもないこうでもないと喜びあったり、傷ついて落ち込んだりしていた。
キリコとは、仕事を超えた付き合いをしていた人が多かったけれど、私も間違いなくその一人だったと思う。

パソコンもスマホも、メールさえも一般的でなかった当時は、電話が一番普通のコミュニケーション・ツールだったし、平気で何時間もしゃべったりしていた。

キリコはいい声をしていて、その話し方は独特なトーンを持っていた。
いつも夢を語っているような、または人の夢をすくいあげるような。
それは長い年月の間に私に染み込んで、今でもあの音調をありありと思い出す。
ポジティブで、好奇心と愛情と少しの不器用さとに溢れたその声の主は、レイアウターからカンタオーラに転身してウロウロしている私を常に励ましてくれたものだ。

パセオを離れてからも、病を得て身体の自由がきかなくなってからも、キリコのフラメンコとそれに関わる人への愛情は人一倍だった。みんな知ってる。
プロもアマチュア初心者も関係なく同じ土俵に乗せてしまう力業と明るさがあった。その事に救われた者たちも多かったのだ。そんな風にやみくもな情熱を持つ人なんて、他にそうそういなかったから。

アクースティカ倶楽部の立ち上げに関してZoomで二時間以上話し、そのやりたいことの多さにあきれ(笑)、
それでも様々な協力者を得て素敵な企画が進んで行こうとしている、
ヨカッタ、タノシミ、
と思った矢先に、キリコの訃報が入ってきた。

…悔しすぎたな。
残念でならない。ちょっと待てよぉ、って。

何か大切な物事を共有していた人が、また一人私から去っていった。

キリちゃんのパワーに対して、からだは重すぎたんだね。
3ヶ月たつ今もなお、その理不尽な運命には腹が立つが、キリコは翼を授けられたのだと思いたい。
自由な身になって、私たちを、日本のフラメンコを、変わらず見守って下さい。

キリコに、今さらながら言いたいことが二つある。
一つは、いい旦那さまに巡り会えて貴女はとても幸せだったね、ということ。
もう一つは、どんな風に名前を変えても、私にとって貴女はキリコだな、ゴメンね、ってこと。
だって「キリコです」って、
その声から始まる夢の物語を、私はまだ終えられてない。道は途中なんだ。見ていてね。もう少し頑張る。
そしていずれ、天上の大フィエスタに参加させてもらうのを、楽しみにしてます。

(※このタイトルは、キリコさんがまだノベンバー・イレブンスのブッキングを精力的にやっていた20年近く前ころに、誘われて菊地裕子と二人で日本語フラメンコと一人芝居の実験ライブをやったときのものです。)

キリコ流「フラメンコライターの作り方」

菊地 裕子(フリーライター)

西脇美絵子、通称キリコと出会ったのは、もう30年近く前のことだ。彼女は月刊『パセオ(後のパセオフラメンコ誌)』の何代目かの編集長。当時、『パセオ』は日本でフラメンコを学ぶ人々にとって最も身近な情報源だった。

一方、私はフリーライターをしており、その2年ほど前から始めたフラメンコ舞踊に夢中になっていた時だ。書店で『パセオ』誌の存在を知り、隅から隅まで読んでいるうち、販売部(当時はショップが併設されていた)のパート募集の記事を見つけた。あわよくばフラメンコについてもっと生な情報に接することができるかもと考えた私は、バブル崩壊のあおりで仕事が減っていたことも手伝い、早速、『パセオ』誌に電話をかけた。

すると、「いつの『パセオ』をご覧になってるの?とっくに募集は締め切ってますよ」。見ると2か月前の雑誌だった。恥ずかしくなった私は、自分がフリーのライターであることなど、聞かれもしないことをあれこれと喋ってしまった。

「あなたライターなの?だったら一度、作品のコピーと履歴書を持って編集部に来てくれません?ライターさんを探してるのよ」

それがキリコだった。

編集部で会ったキリコは、当時私が書いていた新聞の書評記事のコピーに目をとめ、「こういう記事が書けるひとを探していたの」と言った。それからは、まず業界を知ってもらうためにとフラメンコ教室の取材記事や、日本人のプロの踊り手さんの練習法の取材記事などを担当させられ、次第に日本人からスペイン人のインタビュー記事、後にはステージ評、踊り練習用DVDの制作など、様々なことに関わらせてくれた。

今も強烈に憶えているのは、キリコが最初から私を、多くのフラメンコの舞台に連れて行き、多くのアーティストに私を紹介し、多くの時間を割いてフラメンコの業界について教えてくれたことである。

当時の編集者とライターの関係は、今よりもっと密だった。インターネットが出てくるまで、打ち合わせも原稿の受け渡しも対面だったからだ。だが、キリコと私はもっと濃い時間を過ごした。共に公演を観に行けば、必ずと言っていいほど酒を飲んではフラメンコの話をした。原稿を渡した後、キリコの仕事が終わるのを酒場で待っていたことも少なくない。

私が署名で記事を書くようになった際、踊りの師匠から、踊りを取るか『パセオ』に書くことを取るかの二択を迫られたことがあった。キリコに相談すると、「お姉さんのように踊れるひとは山ほどいるけど、お姉さんのように書けるひとは他にいないのよ!」と叱咤された。肩書をフリーライターでお願いしていたのに、キリコは勝手に「フラメンコライター」としてしまった。まるでうっかり間違えたかのように。だが、今思えば、あれは確信犯的にやったこととしか思えない。なぜならキリコこそがまさしく、菊地裕子というライターをフラメンコライターに育てあげたのだから。

もっとも、キリコが育てたのは私だけではない。彼女が仕事の合間に会っていたひとは多岐にわたっていた。「ごめんね、今日はお姉さんと飲めないのよ」と何度言われたことか。おそらく彼女が育てた人材は沢山いる。そして私もその中のひとりだ。

キリコが『パセオ』誌の編集長を辞してからは、会う頻度は減ったものの、私たちの交流は続いた。

キリコが関わる公演には必ずと言っていいほど招待された。赤坂にあった『ノーベンバーイレブンス』で彼女がフラメンコのアテンドを任されていた時の最初数年は毎回観に行った。また、キリコが何か新しい企画を立ち上げる際は、私に声をかけてくるのが常だった。私もまた、自分のこれからについて、キリコに相談したものだった。

キリちゃん、覚えていますか。大切な友人が私たち2人をレンタカーで1泊2日の旅行に連れ出してくれたことを。夜の宿で、先に寝てしまった友人をほったらかし、朝まで日本酒飲みながら侃々諤々の議論をしたことを。日本のフラメンコ界の未来について、お互いの将来の計画について、文章でできることについて、その他諸々。

そう、長年、私たちは、会えばそんな話ばかりしていたね。

私にとってあなたは、いつも「この現状において自分は何ができるか」を考え、周囲にも「半端ない熱量で投げかけていた」ひとでした。「誰かの、何かの役に立つ」ということが、あなたの中では非常に大きな核心だった。多くのフラメンコアーティストたちのサポートに奔走し、誰彼と会っては夢を語り、アイデアを思いついては実行に移してきたあなた。

でも、あなたは完璧ではなかった。あなたのアイデアや企画には、往々にして少しばかりの穴や緩みがあり、関係者を戸惑わせることもありました。もっとも、長年の付き合いの私から見れば、それだってあなたの可愛らしさ、魅力のひとつでもあったのです。

ただ、今になって思うのは、せめて自分の体のことには、もっとちゃんと向き合って欲しかった。私も、もっとちゃんと言えば良かった。思っても詮ないことですが、今でも口惜しさがこみ上げます。

いや、いいのいいの、キリちゃん、そっちに行くまで待っててよ。また朝まで飲もう。墓場まで持っていく予定の話が沢山あるからさ、その時、話そう。じゃ、またね!

大好きなママリアへ

飯塚真紀(バイラオーラ/フラメンコ舞踊家)

「生まれ変わったからこれからは『ママリア』と呼んで!」

最近は、本人にそう言われていました。だから『西脇さん』ではなく、以前呼んでいた『キリコさん』でもなく、私は『ママリア』と呼ぶことにします。
そして、私にとっては人生の先輩ではありましたが、気さくな彼女は、私が対等な友人のように接することを望んでくれていたので、この追悼文も彼女に話しかけるつもりで書かせていただきます。

ママリア、私はなかなかこの追悼文が書けないでいたんだよ。加部さんに原稿を依頼されてから1ヶ月も放置してしまっていたよ。苦笑。

無意識でこう思ってた、
「ママリアはまだこの世にいるのだから、お別れの手紙は書けない」
私は、あなたがいなくなったことに向き合えないでいたんだよ。ママリアの家にお線香をあげに行っても、写真と位牌は確かにあったけれど、
「あれがママリアがいなくなってしまった証拠にはならない!」
そう思い込みたくて、あなたの永眠を認めることを拒否してきた。

だけど、今このメッセージをあなたに書くことで、私はこの事実を受け入れることになるね。あの日から4ヶ月、やっとお別れを言える状態になれたよ。

11月24日木曜日、実は私はあの日、スペインの公証役場で離婚の手続きをしていたんだ。その手続きが終わり、髪を切って気持ちを切りかえようと美容院の椅子に座っていた時に、加部さんからあなたの悲報の連絡を受けたんだよ。
あなたはそれまでに、数々の健康上の問題を奇跡的に乗り越え続けてきた人だったから、今回の入院も「また入院しちゃったけど、いつものように反省しながら退院してくるでしょ」って思ってたよ。

だから連絡受けた瞬間は、びっくりし過ぎて意味が分からなかった。ちょっと前まで、私の悩みを何度も何度も夜中までずっと聞いて、元気づけてくれていたよね?私よりもずっと元気なママリアだったよね?
同じ日に、私の事件とあなたの事件が起きたという事実、これを私は偶然とは捉えない。きっと意味がある、ここにメッセージがあると思ってるよ。美容院の椅子の上で静かに流れた涙の価値を、私は一生忘れないよ。

私とあなたが出会ったのは、あなたが雑誌『パセオフラメンコ』で編集長をやっていた時だったよね。私はバイトで入社の22歳、あなたは30歳くらいかな。30年以上も前だね。
私、女編集長のあなたに憧れていたんだよ。仕事にかける熱意と集中力と姿勢が、本当にかっこよかったよ。私がスペインに留学することになったときには、『留学生日記』というタイトルでパセオに連載することを提案してくれたよね。

あの頃からついこの間まで、私はあなたにずっと応援してもらってきた。
「真紀ならできるよ!」って真顔で真剣に私を評価し続けてくれたよね。そして、それって私にだけではなかったでしょ。あなたは、人をとことん応援する、後押しする、信じる。真っ直ぐな真っ直ぐな熱い熱い女性だったよね。その真っ直ぐさが大好きだったよ。

自分の意見をしっかりと持っていて、キレのいい深い発言をしたと思ったら、感動したときは嬉しさを思いっきりゼスチャーや表情で表現してて、男性的なかっこよさと少女のようなチャーミングさを合わせ持った、不思議な魅力を持つ女性だよね。

私たちはかなり深い話もする関係だったから、お互いの変化や進化をシェアしてきたよね。私は、あなたと関われたこの30年をとても大事に、そして嬉しく思ってるよ。あなたはやり切ったし、生き切ったと思ってるよ。病気をいくつも抱えたあんな体の状態で、よくここまで生命を維持したよ、奇跡だと思うよ。私ならもっと早くにめげてるよ。あなたの生命の炎はいつも燃え続けていたよね。いい意味で燃え尽きたんだね、と思ってる。

あなたがいなくなったことは、本当に本当に本当に残念だよ。もっともっともっと話たかったよ。

だけど、私から最後にあなたにかけるハレオは「Ole!」
このハレオは、ママリアの生き様にピッタリだよね。

あなたの非存在を悲しむ人がたくさんいる。それはみんながあなたを大好きだったから。だから、あなたにもう一度会いたかったからみんな泣いちゃうよ。

私は、あなたが残したメッセージをこの世で繋いで行くね。
「真紀よろしくね〜!」って天国で大声で笑っているよね?

出会ってくれてどうもありがとう、ありがとう、ありがとう。

あなたが大好きな真紀より

西脇さんの贈り物

大沼 由紀(バイラオーラ/フラメンコ舞踊家)

フラメンコを聴くこともそうだが、軽く受け流せないものに向き合うには、それなりの態勢が必要だ。毎年送られてくるフラメンコ協会新人公演の講評もそうで、選考委員の皆様が連続三日間出場者の演奏、踊りに集中し、今度はそこで感じたことを文章にするという大変な作業に対し、敬意を持って読むことを常としている。昨年は10月11月と劇場公演を抱えたことで、どうにもこうにも時間が取れず、会報を開いたのがなんと12月だった。遅過ぎた。

そこにあった西脇さんの文章に瞠目したのだ。言葉の全てが、常日頃私も感じていることを、西脇さんらしい「伝わる書き方」で、しかし芯を持った潔さで書かれていた。厳しい意見とも取れるかもしれないが、そこにあるのは間違いなくフラメンコを渇望する心であり、決して西脇さんの個人的感情に留まるものではなく、長年フラメンコを追い求めてきた同志としての熱情が放った澄んだ矢であった。西脇さんと語り合いたかった。すぐに連絡したかった。だが時すでに遅し。西脇さんはもうここにはいなかった。なぜ少しの時間を捻出することが出来なかったのかと、ジリジリとした悔しさが押し寄せた。

フラメンコを知ろうというコンセプトで始まった座学クラスで、西脇さんの文章を読み上げる。西脇さんの真っ直ぐなフラメンコへの思いが突き刺さり、涙する者もいた。しかし何せ少人数クラスである。今回この場を借りて再び伝えることが出来ることを大変ありがたく思う。

厳しいことを言う時は、必ず自分の身も痛む。決して高みからの物言いではない。「新人公演がスタートしたばかりの頃は、選考する側が、『舞踊性ばかりを評価してフラメンコ性に対する評価が低い』とよく言われていた」と書かれているが、その頃から西脇さんは、「フラメンコ性」というものへの責任を重く感じ、自分にはその理解があるのかと自問自答し、長い年月をかけて探し続けたはずだ。だからこそ、踊る側、選考する側の境を取っ払って、フラメンコ愛好家者同士として、「私たちが求め続けたフラメンコ性とは?」と問いかける。

フラメンコを踊ってみようとなれば、誰でも最初は見様見真似だ。まずは舞踊としての基本を身につけるだろうが、ここで問われる「フラメンコ性」が希薄だとフラメンコらしくならないということに気が付き始める。舞踊性の充実とは別物の、非常に難しいテーマだが、西脇さんも書かれているように、「フラメンコ性」をヒターノの踊り手の特徴的な動き方を真似することで獲得出来るのではと思うのは危険だ。なぜならそれは、踊り手の個人的な生活と密着した所作であったり、衝動の中で思わず生まれた動きであったりするからだ。身体の美学により必然的に生まれた動きではないので、鏡と睨めっこして練習するものではないだろう。外側の動きから入ることは、舞踊の学び方の一つで、今までに知らなかった動きを自分に課すことで、フラメンコであればフラメンコ独特の美学を体得していく。身体に覚え込ませることで新たな感覚も生まれる。ゆえに基本の動きは、最初はさまにならなくても練習するのだ。しかしそれはあくまで基本の習得であり、日常的個人的所作や、思わず生まれる衝動的な動きを真似ることではないだろう。

 

マティルデ・コラルは言う。

「Lo que hace un gitano bailando jamás lo podrá hacer un no gitano. Son expresiones muy diferentes, pero ocurre que la astucia del no gitano es enorme; si está profundamente enamorado del gitanismo, a veces saca cosas tan fuerte, tan buenas como las del gitano, aunque siempre será un plagio.」- en una entrevista con Paco González -

(ヒターノが踊ることで作り出すものを、ヒターノではない者は決して作れない。全く違う表現なのだ。しかし、ヒターノではない者の機敏さも特筆すべきもので、もし深くヒターノ的なものに惚れ込んでいるなら、時にとても強くて、素晴らしいものを引き出すことが出来る。まるでヒターノのような。それがいつも真似であったとしても)

―パコ・ゴンサレスのインタビューより抜粋―

私達はヒターノ(ロマ民族、ジプシー)でもパジョ(ロマでない一般スペイン人)でもない。マティルデが語るように、両者の違いをはっきり認識しても、パジョという着地点はない。日本人である。これはフラメンコに向かう上で厳しい現実だが、どちらでもないというのは、言い方が難しいが、なんというか、縛りがない立場とも言える。惚れ込んだ踊り手の全てを徹底的に真似する取り組み方も、私たちならありかも知れない。しかしそこで大事なのは、彼らの動き、ちょっとした仕草一つ、そこに何が潜み、何がその動きを生んでいるのかを、自分なりに深く洞察することではないだろうか。そうしたなら、これは真似をすることではないと自らブレーキをかけることもあるだろうし、あるいは、この感覚が生むこの動きに自分は同調するのだと、勇気を持って突き進むこともあるだろう。それはもはや、上手く真似ることが目的ではなく、自分との戦いだ。

フラメンコは、こう踊らなくてはいけないという形の上での正解はない。皆違う。学ぶ側は目に見える正解があれば楽だが、踊り手はそれぞれのスタイルがあって、一流のアルティスタは誰とも似ていない。しかし、全く違うスタイルであっても、共通しているものがある。フラメンコだ。一方、フラメンコでしかない「振り」をやっても、フラメンコを感じない場合もある。つまりフラメンコ性は形ではないのだ。目に見えないものなのだ。

フラメンコを見つめ、フラメンコを知り、自分の中を見つめ、なんとか少しでも近付こうとする過程の中で、「フラメンコ性」が微かに匂ってくると信じたい。つまりは、よく言われるように、フラメンコとはその人の生き方であるというところに着地するのではないか。西脇さんも書いておられる。「フラメンコ性とは、その人の生き方、在り方とつながっていると私は思う」と。フラメンコという怪物を前に、自分をどう対峙させ、どう進んでいくのか。やっとここまで来た、さあここからだ、と思う。西脇さんが私たちに残してくれた贈り物、どうか声にして読んでみてください。 心より感謝を込めて。

2022年新人公演バイレ・ソロ部門講評

西脇美絵子(評論ライター)

<前略>

出場者は総じて皆、うまい。平均点で行ったら、特に今年が低いなんてことは全然思わない。でも、でも、でも、なんである。

新人公演がスタートしたばかりの頃は、選考する側が、「舞踊性ばかりを評価してフラメンコ性に対する評価が低い」とよく言われていた。選考する側も出場する側もそうしたアナウンスは耳に入っていただろうし、そのことを通して「フラメンコ舞踊は、舞踊性よりもやっぱりフラメンコ性が大事なのだ」と、双方それぞれに感じていたのだと思う。そして年月を重ねるとともに、選考する側は、舞踊性よりもフラメンコ性により着目するようになり、出演する側は「最低限の舞踊性」をほとんどの人が当たり前に持つようになり、フラメンコ性、すなわちフラメンコ独特の技術やフォルムや表現力を多くの人が身につけるようになった。その事自体が悪いとはもちろん思わない。

だが、問題なのはフラメンコ性の中身だ。

多くの人が本当にそつなく大きな破綻なくそれなりにうまく踊る。踊り込んでいる。ステージに立ち慣れていると見受けられる人も少なくない。だけど、なんである。

誤解を恐れずに言うなら、ステージ上で出場者の多くが、さぁ、どうだ!とばかりに見せてくる「フラメンコ性」が、小手先の技術に見えて仕方がないのである。

目で見たまんまの、絵に書いたような「フラメンコ性」のオンパレード。目で見たまんまをなぞった「フラメンコ性」。それじゃ、振りをなぞっているのと変わらないではないかと。私たちが求め続けてきた「フラメンコ性」ってこんなに安っぽいものだったんだろうか?

もう一度言う。皆さん上手なのだ。フラメンコの型にそれなりにハマっているのだ。形としての「フラメンコ性」はできている。

でも、そのフォルムを超えて、内から溢れ出る何かは伝わってこない。でも、それこそがフラメンコだと、感じている自分がいる。

だから、皆、うまく踊っているのに、リズム感だってそれなりにあるのに、バックへの合図の出し方だって頭と形ではわかっているのに、腹で周囲の空気を動かし、大きなうねりと熱量で“事件”を起こすことはできない。

具体的な例を少し上げてみよう。

例えば、その場で地団駄を踏むように足を踏み鳴らすときや、決めポーズの瞬間などに顔を左右にブルブルっと振る仕草。これをそこだけくり抜いて取って付けても、不自然な振りにしか見えない。あの仕草は、そこに至るキレキレの動きとか、それこそ武者震いのごとく内に抑えきれないパワーや強い感情と連動して初めて自然に美しく見えるのだ。それをそこだけこれ見よがしにやられても説得力がないのである。あぁ、ファナ・アマジャやラ・モネタが好きなんだなと、それをやりたくなる気持ちはわかるけれど、それだけやっても陳腐なだけだ。

もう一つ具体例。顔で踊るのはやめた方がいい。「いかにも」悲痛な表情で、表情筋ばかりを頼りに踊っているように感じられた人が少なからずいる。フラメンコは「お人形さんのような作り笑いではダメ」とは、よく言われること。「悲痛な表情」はたしかに表面的には、フラメンコの精神性を感じさせるマークみたいなものかも知れないが、これとて意識的に作り込んだら、「作り笑い」と一緒。舞踊表現としては表情も大切な要素だ。でも、フラメンコのそれは、嘘があってはダメなんである。その人自身の内から出たエネルギーでなければ。

表情筋と向き合う前にもっと体と向き合ってほしい。更にいうなら、目で見た「悲痛な表情」ではなく、その奥にある、自分の心の闇や孤独に向き合ってほしい。ヒターノの抑圧された歴史の中で刻まれた深い痛みや嘆きを無理矢理感じなくてもいい。今ここ日本で生きる私達自身と向き合えばいい。フラメンコ性とは、その人の生き方、在り方とつながっていると私は思う。<後略>



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