<月刊パセオフラメンコ名作アーカイブ/2001年2月号)
(最終回)門外漢のタブラオ
文/菊地裕子
1992年、バルセロナ・オリンピックの年、ギターラについに終幕が訪れた。1964年にオープンして28年。ショーマンに よって作られた日本初の本格的タブラオの存在は、フラメンコの世界にどう影響を及ぼしたのか。歴史を振り返り、その意味を問う。
90年代初頭に始まったバブルの崩壊は、日本の経済活動に深刻な打撃を与えた。有名企業が相次いで倒産し、客商売も影響を免れなかった。得意客を会社のオーナーや重役に頼っていたギターラから客足が遠のいたのは当然で、舞踊手、歌い手、ギタリスト合わせて5人~7人が出演しているのに、客がそれより少ない日も珍しくない。新しい客を獲得するために店の宣伝をしようにも、ここまで赤字経営を許してきたオーナー会社にその経費を出す余裕はなかった。
その頃、マエストロ鈴木に代わって店の総支配人を任されていたギタリストの益子善行は、ゲストショーやフィエスタ、ファニート篠田による創作舞台などの特別企画を催したりもしたが、「その時は客が入っても、翌日からまたぱたっとこなくなる」のが常だったという。
当時のギターラの客の中に、スペイン舞踊家の岡田昌巳がいた。その頃、新宿にスタジオを構えていた岡田は、「応援の意味も込めて」よく通ったという。スペインの一流舞踊団で長くプリマを務めた岡田は、日本の若い踊り手たちの舞台を好感をもって見ていたが、「いくら実力がある、上手に踊れる、スペインで勉強してきたといっても、まだ無名の子たちでプロ意識が未熟だった」と分析する。
「パコやファニートが気の毒で。彼らはフラメンコには浅いかもしれないけど、やっぱりダン矢田さんのショー・ビジネスで鍛えられたプロ。日本はフラメンコの発展途上国なんだから、フラメンコだってショーで見せるしかない。いかにして客を呼べるか、それも踊りのうちと思わないと。マドリードのタブラオでは自分の名前で客が呼べなければ、どんな名アーティストだって首です」
売上はなかなか伸びなかった。益子は上層部から、女性舞踊手に接客をさせるよう促された。しかし、舞踊手として契約している彼女たちにそれはさせられない。従業員の益子やパコ、ファニートらが率先して客のテーブルについて、売上を上げようとした。ダン矢田が出演メンバーに接客をやらせた背景には、客と接して一人でも多くのファンを自分の手で獲得するという意図があったのだが、新しい客は増えず、従来からの客は目減りしていき、経営は悪循環に陥った。
1992年12月、ついにギターラは最後の時を迎えた。バルセロナ・オリンピックで日本中がスペインブームに沸いた年で、ギターラにも客が入ることはあったが、慢性的な赤字を立て直すには至らなかった。ギタリストと並行して慣れない支配人役を務め、経営側と出演者の板挟みになっていた益子は、「ギターラにはスペインから帰ってずっとお世話になった。私にとっても青春です。でも終わった時は正直言って、肩の荷が降りてほっとしました」と話す。
最後の日まで約2年レギュラーを務めた踊り手の杉本明美は、「経営陣から聞いていたので覚悟はしていたけど、やはり寂しかった」と言った。「伝統あるギターラの名前が消えてしまうことと、私自身、スペインから帰ってプロでやって行けるかどうかという時に、今に続く基盤を作った場所でしたから」
週のうち4日から5日出演していた小島慶子は、スペイン留学の最中、ギターラ閉店の報に接した。「ぽっかりと胸に穴が空いたように寂しくなった。踊り手として個を尊重してもらえたし、仲間たちにも恵まれ、なによりもそれで生活していけた。今の時代、ギターラみたいな店はないじゃないですか」
アーティストとしての仕事だけで生活できる店―――ギターラはまさしくそういう店として存在していた。やがてやってくるフラメンコブームに、この店があったなら・・・・・・と、思 わず考えてしまう。その日を待つことなく、日本のフラメンコの貴重な足場は、ひっそりと消えていった。
すべての取材を終えた昨年12月、私の足はギターラが最後に店を構えた新宿・歌舞伎町に向かった。歌舞伎町は日本で最も有名な歓楽街だ。安い居酒屋やファーストフード店、ライブハウス、高級クラブ、キャッチバー、高級レストランなどがあり、そしてありとあらゆる風俗営業の店が混在する。ギターラは、その歌舞伎町の中で最も人通りの多い新宿コマ劇場のすぐ近く、映画館ミラノ座の地下2階にあった。
コマの人込みに比べ、ミラノ座前の通りは人が少ない。ギターラのあった場所の前で、テンガロンハットをかぶった呼び込みの男性がちらしを配っている。地下2階はウエスタン・スタイルのトップレス・ショーをやる店になっていたが、男性は8年も前に閉店したフラメンコの店のことを知っていた。「私は2年前から勤めてるんで、その店を見たことはないんですが、先輩から聞いてました」
事情を話して店の中をのぞかせてもらう。専用の細い階段を降りていくと、西部劇風の押し扉があり、若い店長が迎えた。時間が早いせいか店内に客は少なく、客席には従業員らしい外国人女性が6、7人、所在無げに座っていた。細長いステージではトップレスの女性ダンサーが一人、天井から床まで伸びた金属のバーを握ってくねくねと踊っている。ステージのある場所が、ギターラの時とは違う。内装は完全に変わっているようだ。往時を思い出させるものは、もう何もない。
聞けば、ギターラ閉店後の8年間に3つも店が変わったという。すべて外国人のショーが売り物の店だったようだ。階段を上りなが ら、あらためて28年という歴史を思った。
吉祥寺に開店した翌1965年に新宿東口 (新宿3丁目)に移り、ミラノ座地下に移転したのが1971年。60年代、70年代というのは、新宿が最もホットだった時代だ。学生運動華やかなりし頃で、アングラ演劇やパフォーマンスなどもここを根城に展開した。学生、文化人、芸術家、高級官僚、日雇い労働者、ポン引きに売春婦、さまざまな階層の人 達がたむろしていた。猥雑でエネルギッシュで、いつも何かが起こりそうな町。当初のギターラの妖しく泥臭い雰囲気は、この時代の新宿にいやというほどマッチしていたのではないか。
ギターラの背骨は、 創始者のダン矢田だった。矢田を欠いてのち、店は求心力を失い、なかなかショーで客を呼べなくなっていったが、「アーティストの仕事だけで食べていける店」であり続けたことには変わりない。
スペイン文学者の富永ひろしが、矢田の死から4年後の1990年11月13日の毎日新聞夕刊で、「戦後ショービジネス界の鬼才・矢田茂」と題した一文を寄せている。そこにギターラに関連したこんな箇所がある。「この店はフラメンコとショー・ビジネス次元とを結びつけた、日本でまさに画期的な試みだった。あそこに行けば、仲間の誰かによってそれがいつも踊られているという意識が日本中のフラメンコを勉強するアーティストたちにどれだけ励みとよろこびをもたらしたか」。この意見には、異論もあるだろう。ダン矢田時代のギターラのショーは「フラメンコではなかった」という言葉が、取材の間中、あちこちから聞こえてきたからだ。フラメンコだけに真摯に向き合っている人間にしてみれば、 ショービジネスの方法論の中にフラ メンコを取り込んだ矢田のやり方は、いかがわしいものとして映ったかもしれない。
では矢田自身はどう考えていたのか。ギターラ開店から9年後、初のフラメンコの専門誌として出版された「フラメンコの世界」の創刊号(1973年5月1日発行イベリア) に、「フラメンコの門外漢」と題した矢田の文章が載っていた。驚いたことに矢田はここで、「フラメンコだけは真似事でごまかせるものではなく、この道の専門家にまかせる以外には手をつけられるものではなかった」と吐露していた。さらに矢田は、フラメンコの世界の特異さを言い、自分がその仲間になることは易しいが、タブラオを経営するには「日本ではもう一つ別なフラメンコでない技術が必要で、この無駄とも思える技術なしでは如何にフラメンコを愛していてもその場を維持持続させることは至難なこと」と、書く。矢田独自のショーの演出、経営のやり方を弁護しているともとれる文面である。
矢田が必要だと言う「フラメンコでない技術」には、ショーのやり方だけでなく、何が何でも芸人として食べていくというしたたかさが含まれている。客が喜ぶと思えばフラメンコ以外の曲を歌ったり踊ったりもし、接客もする。フラメンコ・アーティストとして立とうという人々には、これが客に媚びを売ることと見えた。しかし印象的なのは、日本のフラメンコ・アーティストの現状を喝破した次の一文だ。
「スペインに留学するギタリストや踊り手は 数知れない。しかし留学を終えて帰国した彼らには働く場さえもない。プロとはその仕事 でめしを食うことで、踊り手は踊ること、ギタリストは弾くことで生活していくのが本来の姿である。その場がないため、稽古場で教えたり、生活と直接関係のないリサイタルでなんとか自己本来の夢をつなぎとめる方策を見いだしている」
接客でファンをつかんで自分のチケットを売るのと、生徒にチケットノルマを課して自分のリサイタルを打つのと、どちらがよりアーティストとしての矜持に沿うのか———矢田の文章を読むとそんなことを考えさせられてしまう。ここらへんが矢田のカリスマたる所以でもある。矢田は、アーティストの生きる場があり、お互いの助け合いさえあれば、この狭き門は打ち破られると説き、「それまでは、私はあくまでフラメンコの門外漢でなければならないときびしく考えており、本当のフラメンコを知らなくてよかったと思っている」と、開き直ったように文を結ぶ。
ショー・ビジネスとフラメンコが同居した矢田時代のギターラのショーは、確かにフラメンコを知っている人間からすれば奇妙なものだったに違いない。さらに、出演者全員で舞台から接客・営業までこなす矢田のやり方が時代にそぐわなくなってきた面もあっただろう。しかし、アーティストの生きる場が必要だという矢田の言葉に嘘はない。矢田はメンバーに苛烈な要求を突き付けたが、アーティストとしては一人前に扱い、きちんとギャラを払っている。彼にとっては、それがフラメンコかどうかということより、それで飯が食えるか、金が取れるかのほうが大事だったに違いない。後者はこの世界に今もある課題だ。プロの芸人についての矢田の厳しさは、初期のメンバーの生き残りに受け継がれていた。後期のメンバーでも、彼らから何かを学び、ギターラで舞台の厳しさを身につけたアーティストがいる。これから先、果たしてその中から舞台だけで食べていけるアーティストが出てくるのか。そんなタブラオが生ま れるのか。その成り行きにこそ、ギターラが存在した意義が見えてくるのではないかと思う。
最後に、プロとしてギターラの舞台に立ち続けたファニート篠田とパコ山田のその後について記そう。
まずファニートは、ギターラを抜けていた間に故郷の山口県で「洞窟フラメンコ」に出演し、以来、何度か公演を重ねた。特に1987年、人間魚雷で命を落とした青年をモデルにしたフラメンコとクラシックの創作「群青」は、その製作過程がNHK山口放送のドキュメンタリーにもなり、話題を呼んだ。その後1998年、南青山に「ヌエボ・ピアジェ」というフラメンコの店を出し、99年7月には山口で自分の生きざまだという創作「ある闘牛士の生涯」を踊った。
しかし教授活動も始め、これからまた一働きという時に、10月、家の近くの路上で、まったく突然に心筋梗塞で亡くなった。61歳、あまりにも早過ぎる死だったが、その年の1月にファニート自身が「踊る場所がない」とうつろに言うのを聞いた姉のレイ子は、「弟が燃え尽きた感じがした」と言う。果たしてファニートにとっての「踊る場所」とはどこだったのか。やはりギターラかとは、思い入れが過ぎるだろうか。
パコはギターラが閉じた後、しばらく新大久保のタブラオ「カサ・アルティスタ」で歌っていたが、今はフリー。時折、発表会やイベントに出演している。フラメンコに憧れ、十代で北海道から上京し、独学でカンテを身につけた。フラメンコの喫茶店で雇われマスターをしているところをダン矢田にスカウトされ、以来、カンテと司会でギターラになくてはならない存在になった。そのためパコは、どれほど行きたいコンサートがあろうと店を休めなかった。
スペインにも、ギターラが閉店して初めて行くことができた。その後は、ギターラ時代のパトロンや知人を訪ねて、ふらりと旅に出ることが多くなった。「函館にね、面白いホールがあるんですよ。そこで海峡のフラメンコと銘打って、追い分けとじょんがらとフラメンコのセッションをやりたいんです」。ギターラが閉店して寂しくないのか聞くと、「いや。またやりますから。おでんとフラメンコの店もいいかなと思って」と冗談とも本気ともつかぬ答え。「ここまでやってきたんだからね。間口一間の店だっていいじゃないですか。フラメンコの店なら」と飄々と言う。
この二人がギターラで過ごした長い年月を思うとき、我知らず胸が痛くなる。彼らのショーマンシップとフラメンコを求める気持ちとは、どこで折り合っていたのか。それともダン矢田の強大なカリスマの前には、何の矛盾もなかったのか。サングラスをかけたパコの目は、いつも少し笑いを含んでいる。
もう一つ、かつてのメンバーについて、常連客だった更谷正嗣から聞いた話が忘れられない。そのメンバーはレビューのスターだったが、数年前、アルツハイマーになって施設に入った。 知人のことも識別できない状態だった。しかし、見舞いに行った更谷が踊り手時代のスペイン名で呼ぶと反応する。 更谷はギターラのアーティストを何人か誘い、施設を慰問することにした。ちょっとしたミニコンサート。するとフラメンコが始まったとたん、それまでまったく無関心だったその人が手でリズムを取り出した。足で床をたたく。「ああ、わかるんだね!」と名前を呼んだら、うれしそうにほほ笑んだ。彼女の笑顔を看護婦は初めて見たという。「ギターラでクアド口をやっていたのを思い出したんでしょう」
夜ごと夢を紡ぎ出したギターラの舞台は、彼らの思い出の中で今も鮮やかに生き続けている。私は一度も目にする機会はなかったが、その熱さに思いを馳せながら筆を置く。 (完)
