<月刊パセオフラメンコ名作アーカイブ/2000年9月号)
(3)プロの芸人集団
文/菊地裕子
ダン矢田によって鍛え上げられたプロの芸人集団は、舞台はもちろん、店の運営にもショーマン・シップを発揮した。 完璧な舞台のためには徹夜の稽古も辞さず、午後の早い時間から開店の準備をし、ショーの合間には客との会話に花を咲かせる。1日のほとんどの時間が、ギターラを中心に回 っていたーー
ダン矢田は、ショーの出来にことのほか厳しかった。その頃から持病のリウマチなどのせいで車椅子や松葉杖を使うことが多くなった矢田だが、ショーへの情熱は一向に衰えず、気に入らないと誰彼となくメンバーをよく怒鳴った。新宿東口時代のギターラにゲストで出たギタリストの高田鍵三は、車椅子の矢田が演出に熱中するあまり、足が不自由なのも忘れて立ち上がり、「こうやるんだ!」と踊ってみせようとしてばったり倒れたのを目撃 している。
ダン・ヤダ・ダンサーズの初期からのメンバーだったミゲリート菅生は言う。
「ショーの時に踊りの列を乱したり、タイミングがずれたりすると、ああ、また矢田オヤジに怒られるなあって思ってね。気が気じゃなかったですよ」
毎日、5回のショーが終わった後でミーティングと称したダメ出しがある。矢田は個人攻撃はしないが、出来るまで全員にやらせる。 ショーの出し物もしょっちゅう変わり、そういう時には徹夜で稽古させた。本人はいくら寝なくても平気な顔で、「休むのは死んでからにしろ!」が口癖だった。 矢田は陸軍中野学校の出身だったから、ショーの演出をする のにも軍隊式のスパルタが身についていたのではないかと言う人もいる。
「矢田サーカスって言われたもんです」
ミゲリートだけでなく、矢田はメンバーにとって、鞭を持った調教師であり、絶対君主 だった。そして矢田の要求は、ショーの中身だけにとどまらなかった。
ギタリストのペペ島田は14歳の時、ギターラにゲストとしてスカウトされた。11歳の時から7つ8つ年齢をごまかしてプロのステージに立ち、この世界のことをよく知っていた彼の目にも、ギターラは「不思議な世界」と映った。ショーは午後7時からなのに、ギターラでは2時頃には全員が店に入り、総出で掃除や開店の準備をする。
「自分たちの本当にやりたいことをやるためにすべて自分たちの手で、という気持ちも分 かった。でも、なぜアーティストが?って僕は思った」
矢田に直訴し、ゲストだからということで彼だけは従業員の仕事を免れた。だが、ほかの出演者たちにそれはならず、さらに店の方針でショーの合間に接客もしなければならない。男女の別なく客の送り迎えをし、呼ばれればテーブルに着いて相手をする。
舞台も店も、客を楽しませるという意味では同じ。それが矢田の持論だった。内装にも照明にも独特のこだわりがあり、店の雰囲気に彼の色が強く感じられたと、当時の客だった人々が言う。鬼才・矢田にとっては、ギターラという店そのものがショーの舞台だったのかもしれない。開店からメンバーに入ったカルメン岩崎は、あっけらかんと言った。「ショーの合間に矢田オヤジに言われて、籠にチョコレートやピーナツや洋モク(外国煙草)を入れて売って歩いたの。休む暇なんてなかった。でも、いろんなお客さんと話ができて楽しかったわね」
一方、レビューに慣れていた出演者にはペペ島田と同じようにとまどいがあった。パリ時代からダン・ヤダ・ダンサーズのメンバーだった踊り手、ロリータ内海は、「最初の頃は知らない人のテーブルに行って相手をするのが嫌で、もう、いつ辞めようかって思いました」と言う。
「でも、楽しかったですからね。毎日、踊れ るだけでうれしかった。それに矢田先生は、一人一人の才能というか、いいところを引き出すのが上手だったんです」
当時のギターラのメンバーには、ほかにも様々な人がいた。59年からダン・ヤダ・ダンサ ーズに所属し、第一男性舞踊手として活躍していたファニート篠田、宝塚出身で矢田の妻でもあったマリア香取、日劇の元スターでゲスト格で出ていたエミリア水野といったキャリアのある踊り手もいれば、ほとんどギターラが初舞台という踊り手やギタリストもいた。 また時には、スペイン人やスペイン帰りの日本人もゲストになった。矢田はそういった一人一人をアーティストとして大事に扱ったと いう。69年のメンバー中心の公演「血と砂」のパンフレットを見て、高田鍵三が言った。
「これを見たら分かりますよ。ゲストに限らず、踊り手も歌い手もギタリストも、出た人 間が全員ていねいに写真入りで紹介文も載っている。こんなことをやるのは矢田さんぐらいでしょう」
ハードな仕事の合間を縫って、その頃のメンバーたちにはさらにやることがあった。
当初のギターラのショーは、フラメンコだけでなく、ラテンなどほかのジャンルも混ざっていた。 ペペ島田によれば、「とても楽しい舞台。ショーマン・シップに長けた人が集まっている感じだった」という。だがフラメンコだけを見ると、「ルンバ一つでもリズムが違った」。「まがいもの」という言い方をする人もいた。しかし、と高田鍵三は言う。
「当時は僕を含めてみんな手探りでしたよ。本物のフラメンコなんか、日本にはほとんどなかったんですから」
矢田も本物を探してメンバーたちに吸収させた。まず、ギターラの吉祥寺時代にスペインから帰国したばかりのスペイン舞踊家、島みち子に、新宿東口店オープンに合わせてメンバーたちの振付を依頼する。ゲストで出演するかたわら教えていた島のもとには、その後もメンバーたちがレッスンに通うようになった。さらに彼らは踊り手も含めて高田にギターを習ったり、上智大学の教授を招いてスペイン語のレッスンを受けていた時期もある。ゲストとしてホセ・ミゲルと出演した長嶺ヤス子は、当時をこう振り返る。
「その頃の私は、ギターラのショーは変形さ れてて本当のフラメンコじゃないとか、批判的に思ってた。でも私、世の中でずうっと踊 ってきて分かったんだけど、(矢田)先生は根性とか踊る血とかはすごいものを持ってた。 ギターラの昔の踊り手達も先生にそういう芸人根性をたたき込まれて、芯の強さとか根強さとか、いい意味での泥臭さがあった。中身を表現するためには恥も外聞もない。今になって私、あれはすごいフラメンコだったと思うの。だって、フラメンコをやるジプシーも日本の河原乞食も、底に流れる芸人根性は同じもんじゃない、本当は。あの人たちが一生懸命フラメンコを踊ろうと思ってたら、それが本当にすごい根性でできてたとしたら、それはやっぱりフラメンコじゃない?」
ショーマン・シップと本当のフラメンコを求める気持ち。それは長嶺が言うように、彼らの中でうまく溶け合っていたのだろうか。 69年、ギターラは沖縄に姉妹店をオープン。 71年には、本店を新宿歌舞伎町のミラノ座地下に移した。この頃から徐々に、メンバーに新しい風が吹き始めた。(文中敬称略)
![](https://club.acustica.jp/cp/wp-content/uploads/2025/02/acustica-club-3-20009-760x1024.jpg)