<月刊パセオフラメンコ名作アーカイブ/2000年10月号)
(4)ショー・フラメンコの行方
文/菊地裕子
ショー・ビジネスの手腕を広く世間に認められていたダン矢田は、ギターラでもそのやり方を通した。タブラオといってもフラメンコだけでなく、ラテンあり、ジャズあり、モダンありの ステージに、やがて本場のフラメンコを求める若い出演者たちの胸には、それぞれ不満が募ってきた——
ギターラにはスペインからのアーティストも多数出演した。ギタリストのサムエル・マルティン、歌い手のナランヒート・デ・トリアーナ、チャリート・モレノ、マノロ・セビージャ、踊り手ではコロンビア出身のマイロ・デ・ブロンセ、ルンベーラのラ・チャータ (ホセ・ガルバンの妹)など。このうち1971年に半年間出演したマノロ・セビージャが、先日、仕事で17回目の来日をした。当時をよく覚えていた彼は、共演した日本のメンバーの名をすらすらと答えた。「マリア、ファニート、ミゲル、パコ、もう一人歌い手がいた・・・・そう、サリータ!」。 ギターラに「特別の思いがある」というマノロは、矢田の演出した71年の劇場公演にも出ていて、「“ドン〟矢田は、劇場芸術の振付家として素晴らしい人物だった」と言う。
71年、新宿の朝日生命ホールで行われた公演「フラメンコとモダンの幻想舞踊詩」は、3部構成の芸術祭参加作品だった。パンフレットによれば、1部が「クワドロ・フラメン コ(原文ママ)」で、2部はゲストの踊り手マルハ石川や日劇出身のジャズピアニスト市村俊幸(ぶーちゃんの愛称で知られた)らによる幻想舞踊詩「五本の指」、3部はギターラのメンバーに旧ダン・ヤダ・ダンサーズのメンバーや市村が加わり、ジャズ、ラテン、アクロバットバレエ、ベリーダンスなどで構成された作品。ショーマン矢田の面目躍如といった盛りだくさんの内容である。
ギターラのステージでも、矢田はあらゆる手で客を楽しませようとした。セビージャの名カンタオール、ナランヒート・デ・トリアーナに日本語の悪戯っぽい歌を歌わせたこともある。ある正月には、和服を着て日本髪のかつらを付けたチャリート・モレノを舞台に立たせもした。愛嬌のある趣向に、客も出演者も大喜び。だがフラメンコそのものを模索していた人には、矢田らしい演出があだになることもあった。
「ギターラは日本屈指のプロの店だった。楽しませることに徹していた。踊り手も今より気合が入ってたし、その根性は半端じゃなかったと思う。でも演出が過ぎて、アメリカのショーのように見えた」。現在、フラメンコグループ「アトランタ」を主宰する小島武士は、当時の印象をそう語る。小島はギターラのステージを見る以前に3カ月ほどコルドバに滞在し、毎日のように何時間もタブラオに入り浸って本場のフラメンコを見ていた。
67年、同じ新宿にスペイン人アーティストによる本格タブラオ「エル・フラメンコ」がオープンし、ステージの違いはより多くの人に分かるようになってきた。エル・フラに出演中の踊り手クリストバル・レジェスに教えを受け、彼の推薦で日本人としては珍しくエル・フラのレギュラーになったマルハ石川は、68年頃からギターラにゲストとして2年間出演した。彼女の目にも、やはりギターラのステージは「ショー・ビジネス化したフラメンコ」と映った。また、69年から5年ほどギターラのレギュラーを務め、のちに渡西しスペイン各地のタブラオで踊ったテレサ西塚(当時は川上)は、フラメンコ以外にラテンやモダンのショーをやらされるのが耐えられなかったという。「よく母が病気と偽ってギターラを抜け出しました」
73年頃、スペインから帰国してギターラのステージに4、5年出ていたギタリストのハイメ吉川は、ショーのやり方で矢田とケンカしては、「何度も出たり入ったりした」。「フィナーレに『花祭り』 (アルゼンチン民謡) とかやらされるんですわ」。71年からの出演者であるギタリストの瀬田彰も、やはり何度か出入りした口。「僕らのように外からギターラに入ってきた人間は、若くてとんがってたからね」と前置きしたあと、「でも」と言った。「矢田さんは、ダン・ヤダ・ダンサーズのショーの延長のまま、やってた。 フラメンコをそんなに愛していたとは思えない。日本のフラメンコの救世主ではないよ」
とはいえ、彼らがギターラに出演したことで得たものも少なくなかった。 マルハは折からの「スパニッシュ系ブーム」で巡業続きだった生活から一転、「腰を落ち着けてフラメンコを勉強できるようになったことがうれしかった」という。ハイメや瀬田にとっては、スペイン人アーティストとの交流から学ぶことが大きかった。ことにスペイン人と同じ新宿のアパートに住んでいたハイメは、四六時中彼らと一緒にいられた。エル・フラのメンバーの宿舎も近く、彼らとも交流があった。「面白い時代でしたわ」
現在、マドリード在住のテレサは「今思う矢田先生は今風のフラメンコを振り付けた照明や舞台構成なども教育してくれた。 ギターラで学んだことは私の貴重な宝物」と言う。「フラメンコとは、毎日の生活の中で接し、恥もかきながら、体の中にリズムや感性を刻むもの。 そのすべてを教えてくれたのがギターラ。今の若い人たちにあんな体験をさせてあげたい」
"外からの風”と並行して、 ギターラの体制にも少しずつ変化が生じていた。
67年、矢田は国際的に活躍していたルイシージョ・スペイン舞踊団の来日公演を企画し た。同舞踊団はその4年前、4日間の東京公演を打ち、新聞でも絶賛されていたが、矢田の企画は約1ヵ月半で全国33カ所を巡り、43回の公演を打つという大規模なもので、来日メンバーはスター舞踊手のコンチータ・アントンを始め40人以上に及んだ。 スペイン舞踊の来日公演など数年に一度という時代のことで、フラメンコファンには今でも語り種だが、興業としては結果として大変な赤字を抱えることになった。「この時の赤字が、後々まで尾を引いた」とパコは言う。
その頃からリウマチを患っていた矢田の症状が悪化。以前は2、3ヵ月ごとにショーの中身を変えていたが、次第にその間隔が空くようになった。開店からレギュラーだったギタリスト、エスピノサ島倉は言う。 「最初の頃は客の熱気でダンサーもあおられるぐらいで、一緒になって舞台を作っている感じでした。でも新鮮味がなくなってきたのか、初回のショーなんて客がいっぱい入ってたのが、 だんだん少なくなって」。69年には返還前の沖縄浦添村港川に姉妹店を出し、米軍の将校クラスを相手にメンバーが数カ月交替でショーを行ったが、この店も2年は続かなかった。本店が歌舞伎町のミラノ座地下に移転してから、矢田はさまざまなカンフル剤を施した。5回やっていたショーを3回に減らし、 1回目を「コーヒータイム・フラメンコ」と称してコーヒー1杯98円でショーを見せたり、「モニターシステム」という若い客獲得のための割引制度を作ったりした。また、フラワーガールと呼ばれる接客専門のウェートレスたちも雇った。
だがこの後、矢田の情熱は次第にギターラから別のものへと移っていく。レギュラーメンバーたちも人生の岐路に立たされていた。(文中敬称略)
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